本日ご紹介するのは、『Vaundy(バウンディ)』のナンバーから
『イデアが溢れて眠れない』【作詞・作曲:Vaundy】
歌詞全文はこちらのリンクから→https://www.uta-net.com/song/391699/
Vaundyの楽曲「イデアが溢れて眠れない」は、2026年4月20日に配信リリースされたシングルで、フジテレビ系月9ドラマ『サバ缶、宇宙へ行く』(主演:北村匠海)の主題歌として書き下ろされました。
この曲の歌詞をざっくり考察します。(´っ・ω・)っすた~と
まずこの曲のタイトルにある言葉…
『イデア』って何!?って思う方は多いのではないでしょうか?
「イデア」は、もともと哲学の言葉です。
特に有名なのは、古代ギリシャの哲学者 プラトン が使った意味です。
簡単に言うと
「この世界にあるものの“本当の姿”」
です。
たとえば――
この世にはたくさんの「花」があります。
桜、ひまわり、バラ、チューリップ。
全部違うけれど、
私たちはそれを見て
「これは花だ」とわかる。
なぜかというと、
心のどこかに
“完全な花のイメージ”
を持っているから。
その
完璧な本質・理想の姿
を、
プラトンは
「イデア」
と呼びました。
Vaundyのこの曲での「イデア」
『イデアが溢れて眠れない』では、
哲学そのままというより
もっと感情的に使われています。
ここでのイデアは
「まだ形になっていない未来」
「言葉にならない衝動」
「自分の中にある理想」
「まだ見えないけど、確かにあるもの」
です。
だから歌詞では
まだ、イデアが溢れて眠れない
となる。
つまり
「やりたいことがありすぎる」
「未来が頭の中で暴れて眠れない」
「好きとか夢とか希望が溢れてる」
そんな状態。
それを踏まえた上で以下に考察していきます。
この曲の核心は、
「まだ形になっていない“未来”を、信じて進めるか」
です。
タイトルの
『イデアが溢れて眠れない』
ここに全部詰まっています。
“イデア”は
- 理想
- 本質
- まだ見えていない未来
- 自分の中にある可能性
を意味します。
つまりこの曲は
「未来が来る前に、もう心だけはそこへ向かってしまっている」
そんな青春の衝動を描いた歌なんです。
「そこはかとなく 嫌いが勝つようになったね」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
これはすごくリアルです。
大人になる途中で、
- 自分の未熟さ
- 周りとのズレ
- 上手くいかない毎日
- 理想と現実の差
そういうものに気づき始める。
子どもの頃みたいに
ただ前だけを見ることができなくなる。
だから
「なんとなく嫌い」
になる。
世界も、自分も。
この“そこはかとなく”が重要で、
明確な理由があるわけじゃない。
でもずっと苦しい。
青春ってこういう曖昧な息苦しさがあります。
「でも僕だけが いる世界が少し好きになった」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
ここがすごい。
世界は嫌い。
でも、
自分の中にあるものだけは信じたい
と思い始める。
つまり
外じゃなくて
“内側”に希望を見つけた。
これはVaundyの曲で何度も出てくるテーマです。
『呼び声』の
「暗闇照らす何か」
も同じ。
救いは外から来ない。
まず自分の中にある。
「言葉が 瞳閉じた僕の脳、宙を舞い」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
これは完全に
ひらめきの瞬間
です。
夜、眠れない時。
突然、
- メロディ
- 言葉
- 感情
- 誰かの顔
- 将来の景色
が頭に浮かぶ。
でもまだ掴めない。
ふわふわ漂っている。
だから
「宙を舞い」
なんです。
恋も夢も同じ。
まだ名前がつかない。
でも確かにある。
「ととのえない 僕の脳になんか聞こえてきた」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
ここが最高です。
整理できない。
言葉にできない。
でも、
何かが聞こえる。
これは
未来の自分の声
とも読める。
あるいは
運命そのもの。
まだ説明できないけど、
「こっちだ」
って感覚だけはある。
人生を変える時って
だいたいこうです。
「全てを失ったその後で この先は終わらない旅をしよう」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
これがこの曲の核。
普通なら
失ったら終わり。
でもこの曲では違う。
失った“その後”から始まる。
つまり
挫折
失恋
失敗
夢破れた後
そこからが本当の人生。
Vaundyはここで
再出発
を歌っています。
『再会』『灯火』『常熱』にも通じる思想です。
終わりじゃない。
そこから旅になる。
「君がそう言うから」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
この“君”は誰か。
これが面白い。
考え方は3つあります。
① 好きな人
一番素直な読み。
誰かに背中を押されて
人生が動き出す。
青春そのもの。
② 音楽
Vaundy作品ではかなり多い。
“君”=音楽。
音楽が
「旅を続けろ」
と言っている。
だから胸が高鳴る。
③ 未来の自分
これが一番深い。
未来の自分が
「大丈夫、進め」
って言っている。
だから
ドキドキする。
怖いけど、行きたい。
「偶然の先、必然の先」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
人生って最初は偶然に見える。
たまたま出会った
たまたま好きになった
たまたま始めた
でも振り返ると
全部必要だった気がする。
それが
偶然→必然
です。
青春の後になって
初めて意味がわかる。
「言葉は光すらも超えて」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
これはかなり哲学的。
光より速いものなんてない。
でも
言葉は超える。
なぜなら
一言で人生が変わるから。
- 好き
- 行こう
- 大丈夫
- またね
たった一言が
時間も距離も超える。
だから
言葉は光より速い。
すごい表現です。
「宇宙の先、銀河を超えて」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
ここはスケールが急に大きくなる。
でもこれは誇張じゃない。
青春の瞬間って、
本人にとっては
宇宙より大きい。
教室の片隅の恋が
世界の全部になる。
文化祭の一日が
人生になる。
だからこのスケール感は正しい。
「袖伸ばして未来を待とう」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
ここ好きです。
ただ待つんじゃない。
少し背伸びしている。
まだ届かない未来へ
手を伸ばしている。
未熟だけど
ちゃんと向かってる。
「靴を履いて未来を待とう」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
これはもっと強い。
待つだけじゃない。
もう行く準備をしてる。
未来は来るものじゃない。
迎えに行くもの。
この曲の姿勢が全部ここにある。
「愛が何かわかる気がして」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
ここでテーマが広がる。
最初は
夢・創作・未来
だったのが、
そこから
愛
へ繋がる。
つまりこの曲では
夢を追うことも
誰かを好きになることも
同じ衝動なんです。
どちらも
説明できないのに
止められない。
「でも僕だけが わかることなんだってわかったんだ」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
これが青春。
他人には説明できない。
でも
自分だけはわかる。
その確信。
それが人生を動かす。
「忘れないでおこう」
Vaundy「イデアが溢れて眠れない」作詞・作曲:Vaundy
ここから一気に切なくなる。
青春は終わる。
だから記録する。
- 晴天
- 校舎
- あの曲
- 公転
- 軌跡
全部、
未来の自分のために残している。
これは完全に
青春の保存
です。
一番深い解釈
この曲は
「未来の自分から今の自分へのラブレター」
です。
眠れない夜。
不安。
焦り。
まだ何者でもない自分。
でもその中に
確かに
“イデア”
がある。
だから—
進め。
その眠れなさは
才能じゃない。
始まりだ。
一言で言うなら
「眠れない夜こそ、人生が始まる夜」
それが
『イデアが溢れて眠れない』
です。
以上私なりの歌詞解釈でした。
続きまして、この曲を聴いて膨れ上がった私の妄想ストーリ(歌詞解釈)をチラッとお見せいたします
|ω・)チラッ
『イデアが溢れて眠れない』

第一章 眠れない夜のはじまり
春の終わりだった。
昼間は少し汗ばむくらいなのに、夜になるとまだ風が冷たくて、制服の袖を少しだけ伸ばしたくなる。そんな季節。
高校二年の春。
朝比奈 蒼は、教室の窓際の席で、ぼんやりとグラウンドを見ていた。
サッカー部の掛け声。
吹奏楽部の音合わせ。
遠くで誰かが笑っている声。
全部、ちゃんと青春みたいだった。
でも、そのどれにも自分がいる気がしなかった。
「朝比奈、またぼーっとしてる」
隣の席から声がして、蒼はゆっくり振り返る。
橘 紗月だった。
肩につくくらいの黒髪。
少し眠たそうな目。
でも笑うと、不思議なくらいまっすぐ人を見る。
「いや、別に」
「絶対なんか考えてた」
「…世界平和について」
「浅いなあ」
紗月が笑う。
その笑い方が、少し好きだった。
でも、その“少し”をちゃんと認めるのが怖くて、蒼はいつも適当に誤魔化した。
最近、なんとなく、自分が嫌いだった。
ちゃんと笑えない自分。
やりたいことがわからない自分。
周りはみんな前に進んでいるのに、自分だけ同じ場所にいる気がすること。
そこはかとなく、
嫌いが勝つようになった。
理由なんてない。
でも、夜になると、やけにそれが大きくなる。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、ベッドに入る。
電気を消した部屋で、天井を見上げる。
真っ暗なはずなのに、
頭の中だけがうるさい。
もし、このままずっと何者にもなれなかったら。
もし、このまま誰にも必要とされなかったら。
もし、このまま—
スマホが震えた。
画面を見る。
紗月だった。
『起きてる?』
蒼は少し笑って、返信する。
『起きてる』
すぐに返ってくる。
『屋上こない?』
深夜十一時半。
普通なら断る。
でも、その日はなぜか、
行かなきゃいけない気がした。
制服のパーカーを羽織って、
静かに家を抜け出す。
夜の街は、昼よりずっと優しかった。
コンビニの明かり。
遠くを走る電車。
春の匂いのする風。
学校の裏門は、紗月がよく使う抜け道があって、簡単に入れた。
屋上に続く非常階段を上る。
一段ずつ、
何かが変わっていく気がした。
扉を開けると、
夜空がそこにあった。
「遅い」
フェンスにもたれて、
紗月が缶ジュースを二本持って立っていた。
「不法侵入に文句言うなよ」
「共犯だからセーフ」
一本を投げられて、
蒼は受け取る。
炭酸の冷たさが、掌に残る。
しばらく二人で黙っていた。
風の音だけがする。
街の灯りが、星みたいだった。
「ねえ」
紗月が言った。
「蒼ってさ、最近ずっと苦しそう」
図星だった。
だから、何も言えなかった。
「なんか、自分のこと嫌いになってる顔してる」
「そんな顔ある?」
「ある」
即答だった。
紗月は夜空を見たまま、続けた。
「私もあるよ。そういう時」
「紗月が?」
「あるよ。普通に」
少し意外だった。
紗月はいつもちゃんとして見えた。
ちゃんと笑って、
ちゃんと人と話して、
ちゃんと前を向いてる人だと思っていた。
「でもさ」
彼女は空を見上げたまま、静かに言った。
「それって、たぶん悪いことじゃない」
「え?」
「嫌いになるってことは、まだ諦めてないってことだから」
風が吹く。
その言葉が、
胸の奥に、ちゃんと落ちた。
「全部どうでもよくなったら、嫌いにもならないでしょ」
蒼は何も言えなかった。
言葉が、
頭の中を宙に舞っていた。
ちゃんと掴めない。
でも確かにそこにある。
「蒼はさ」
紗月がこっちを見る。
「何になりたいの?」
その問いに、
すぐ答えられなかった。
ずっと避けてきたから。
夢とか、
未来とか、
そういうもの。
「…わかんない」
やっとそれだけ言う。
紗月は少し笑った。
「じゃあ、探せばいいじゃん」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
彼女は少しだけ真剣な顔をした。
「でも、たぶん」
そして、言った。
「全てを失ったその後で、この先は終わらない旅をしようって、そういうことだと思う」
蒼は息を止めた。
その言葉が、
まるで自分のためにあったみたいに聞こえた。
失った後。
まだ何も始まってない自分。
何者でもない今。
それでも—
終わらない旅。
その瞬間だった。
胸が、
ドクン、と鳴った。
一回じゃない。
もう一回。
もう一回。
うるさいくらいに。
「…なんだよそれ」
声が少し震えていた。
紗月は笑った。
「知らない。でも、たぶん本当」
胸が、
ドキドキしだした。
理由なんてわからない。
でも、
この夜を、
この風を、
この言葉を、
きっとずっと忘れない気がした。
空を見上げる。
天井の先。
星々の先。
宇宙の先。
そのずっと向こうに、
まだ知らない未来がある。
でもきっと、
そこへ行ける気がした。
初めて。
ほんの少しだけ、
僕だけがいる世界を、
好きになれた夜だった。
第二章 靴を履いて、未来を待とう
あの日の夜からだった。
朝比奈蒼の中で、
何かが少しずつ動き始めたのは。
劇的に変わったわけじゃない。
次の日も普通に学校はあって、
一時間目は眠いし、
数学は相変わらず意味がわからないし、
購買の焼きそばパンはすぐ売り切れる。
世界は何も変わっていなかった。
でも、
蒼の中だけが違った。
教室の窓から差し込む朝の光が、
少しだけ眩しく見えた。
風の匂いとか、
誰かの笑い声とか、
チャイムの音とか。
今までただ通り過ぎていたものが、
ちゃんとそこにある気がした。
それが何なのかはわからない。
でも確かに、
“何か”が始まっていた。
「で、昨日の夜なにしてたの」
昼休み。
屋上へ続く階段の踊り場。
ここは蒼と紗月の、半分だけ秘密基地みたいな場所だった。
昼なのに少し薄暗くて、
窓から見える空だけがやけに青い。
紗月はパンの袋を開けながら、
何でもない顔で聞いてきた。
「急に呼び出したのそっちだろ」
「ちゃんと来たじゃん」
「行かなきゃダメな気がした」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
紗月は一瞬だけ目を丸くして、
それから笑った。
「なにそれ、ちょっと青春っぽい」
「うるさい」
蒼は紙パックのコーヒー牛乳を吸う。
沈黙。
でも、嫌じゃない沈黙だった。
むしろ、その静けさの中のほうが
ちゃんと話せる気がした。
「ねえ」
紗月が窓の外を見たまま言う。
「蒼って、昔なんかやりたかったことないの?」
その質問に、蒼は少し考えた。
そして、思い出す。
小学生の頃。
ノートの端に、ずっと絵を描いていたこと。
意味もなく街を描いたり、
まだ見たこともない景色を描いたり。
教室じゃなくて、
自分の頭の中にある世界のほうが
ずっと好きだった。
「…絵」
「え?」
「昔、描いてた。ずっと」
紗月がちゃんとこっちを見る。
「見たい」
「ない」
「なんで」
「恥ずかしいから」
「それ青春じゃん」
「全部それで片付けるな」
でも、少しだけ笑えた。
たぶん、
ああいう夜を越えた人間は
少しだけちゃんと笑えるようになる。
放課後。
美術室の前で、蒼は立ち止まっていた。
自分でも何してるんだと思った。
中からは、
絵の具の匂いと、
誰かの話し声がする。
美術部。
一度も入ったことはない。
でも、足が勝手にここまで来ていた。
逃げようかと思った、その時。
「朝比奈?」
後ろから声がした。
振り返る。
そこにいたのは、
美術部の先輩だった。
三年の冬馬先輩。
文化祭のポスターを描いていた人で、
校内ではちょっと有名だった。
「どうした?」
「あ、いや、その…」
終わった、と思った。
こういう時にうまく話せる人間なら
もっと楽に生きてる。
でも、
「…絵、描きたくて」
自分でも驚くくらい、
その言葉はちゃんと出た。
冬馬先輩は一瞬黙って、
それから笑った。
「いいじゃん」
それだけだった。
否定も、詮索もない。
ただ、
“いいじゃん”
それだけ。
その一言が、
なぜかものすごく嬉しかった。
その日の帰り道。
夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
駅までの坂道を、
蒼と紗月は並んで歩く。
風が少し強い。
制服の袖が揺れる。
「で?」
紗月が言う。
「行ったの?」
「…行った」
「え、ほんとに?」
「その反応やめろ」
「すご」
心底嬉しそうに笑う。
なんでお前がそんなに嬉しいんだよ、
と思いながら、
少しだけ、
その顔を見ていたくなる。
「ねえ蒼」
「ん」
「未来ってさ」
紗月は前を向いたまま言った。
「待つものじゃなくて、迎えに行くものだと思う」
その言葉に、
また胸が鳴る。
「だから」
彼女は少し笑って、
「ちゃんと靴履いときなよ」
と言った。
蒼は思わず吹き出した。
「なにそれ」
「名言っぽいでしょ」
「だいぶ雑」
「でも本当」
そうだと思った。
袖を伸ばして
未来を待つ。
でもそれだけじゃ足りない。
ちゃんと靴を履いて、
歩き出さなきゃいけない。
未来は、
向こうから来るものじゃない。
自分で迎えに行くものだ。
その夜。
久しぶりに机に向かった。
白いスケッチブック。
真っ白なページ。
昔なら、
この白さが怖かった。
何も描けない自分を
突きつけられる気がして。
でも今は違う。
ペンを持つ。
呼吸をひとつ。
静かな部屋。
窓の外、
遠くで電車の音がする。
頭の中に、
あの夜の屋上が浮かぶ。
風。
夜空。
紗月の横顔。
「終わらない旅をしよう」
その言葉。
言葉が、
瞳を閉じた僕の脳、
宙を舞う。
まだ整わない。
でも、
たしかに見える。
この先の景色が。
蒼は、最初の一本の線を引いた。
たったそれだけなのに、
世界が少しだけ
変わった気がした。
そしてその夜もまた、
イデアが溢れて、
少しだけ眠れなかった。
第三章 晴天と、この校舎に流れたあの曲を
六月に入ると、
学校は急に騒がしくなる。
廊下には文化祭実行委員のポスターが貼られ、
放課後になるたびに、どこかの教室から
笑い声や段ボールを引きずる音が聞こえた。
まだ夏は始まっていないのに、
みんな少しだけ浮ついている。
その空気が、蒼は嫌いじゃなかった。
むしろ、少し好きだった。
以前なら、
「どうせ終わるものだ」
って、どこか冷めた目で見ていた気がする。
でも今は違う。
終わるからこそ、
ちゃんと残したいと思った。
忘れないでおこう。
晴天と、
この校舎に流れたあの曲を。
そんな言葉が、
ふと頭をよぎる。
「朝比奈、文化祭のポスター描かない?」
放課後の美術室。
突然、冬馬先輩にそう言われて、
蒼は持っていた鉛筆を落としかけた。
「……え?」
「今年のテーマ、“軌道”なんだって」
先輩はキャンバスに向かったまま言う。
「青春ってさ、まっすぐじゃないじゃん。遠回りしたり、ぶつかったり、でもちゃんと進んでたりする。そういうのを描けるやつがいい」
蒼は黙った。
そんな大きなもの、
自分に描ける気がしなかった。
でも。
頭の中には、
あの夜の屋上がある。
紗月の言葉がある。
まだ見えない未来がある。
それを描きたい、
と思った。
「……やります」
声は少しだけ震えていた。
でも、ちゃんと前を向いていた。
冬馬先輩は笑った。
「うん、そう言うと思った」
その日の帰り道。
蒼は駅までの坂を、
少し早足で下っていた。
伝えたいことがある時、
人はこんなに足が速くなるんだと知った。
改札の前。
友達と話していた紗月を見つける。
目が合う。
彼女はすぐに気づいて、
小さく手を振った。
その仕草だけで、
胸が少しうるさくなる。
「どうしたの」
「いや、ちょっと」
友達が空気を読んで去っていく。
こういう時だけ、
高校生って妙に察しがいい。
「……文化祭のポスター、描くことになった」
数秒、沈黙。
そのあと。
「え、ほんと!?」
信じられないくらい大きい声だった。
通りすがりの一年が振り返る。
「声でかい」
「だってすごいじゃん!」
本気で嬉しそうだった。
その顔を見て、
ああ、
頑張ってよかったって、
思ってしまった。
「蒼、ちゃんと進んでるじゃん」
その一言が、
ずるいくらいに響いた。
ちゃんと進んでる。
そんなふうに言われたこと、
今まであっただろうか。
たぶん、ない。
だから、
嬉しかった。
ものすごく。
それからの日々は、
少し忙しくて、
かなり楽しかった。
授業中にこっそりラフを描いて、
放課後は美術室にこもる。
空。
校舎。
光。
星の軌道。
誰かの横顔。
言葉にできないものを、
形にしようとする時間。
難しかった。
何度も消して、
何度も描き直した。
全然うまくいかない日もあった。
それでも、
不思議なくらい苦しくなかった。
むしろ、
こんなふうに何かに夢中になることを
ずっと待っていた気がした。
「ねえ」
ある日の夕方。
美術室の帰り、
紗月がふいに言った。
「蒼ってさ」
「ん?」
「最近、ちゃんと笑うようになった」
足が止まりそうになる。
「……前は笑ってなかったみたいな言い方やめろ」
「笑ってなかった」
即答だった。
ひどい。
でも、
否定できなかった。
「今はね」
紗月は夕焼けの空を見ながら言う。
「ちゃんと未来見てる顔してる」
風が吹く。
オレンジ色の光が、
彼女の横顔をやわらかく照らしていた。
たぶん、
この瞬間を好きになるんだと思った。
いや、
もう好きだった。
ずっと前から。
気づかないふりをしていただけで。
愛が何かわかる気がして。
でも、
僕だけが
わかることなんだってわかったんだ。
その感情に名前をつけた瞬間、
少しだけ怖くなった。
壊れたらどうしよう。
言ってしまったら戻れない。
今のこの距離が、
なくなってしまったら。
でも、
それでも。
伝えたいと思ってしまった。
それが恋なんだと、
たぶん初めて知った。
その夜。
机の上には、
ほとんど完成した文化祭ポスター。
タイトルはまだない。
でも、
描きたかったものは
ちゃんとそこにあった。
軌道。
遠回りしても、
ぶつかっても、
それでも前へ進む線。
公転みたいに、
何度も同じ場所を回りながら、
少しずつ未来へ近づいていく。
蒼は窓を開けた。
夜風が入る。
空には、
うっすらと星が見えた。
スマホを手に取る。
メッセージ画面。
相手は、橘紗月。
何度も書いて、
何度も消す。
結局、送れたのは
たった一言だった。
『文化祭の日、ちょっと話したい』
送信。
数秒。
いや、
永遠みたいな数秒。
返信。
『うん、私も』
その一文だけで、
胸が、
またドキドキしだした。
眠れない夜だった。
でももう、
この眠れなさを
嫌いだとは思わなかった。
第四章 偶然の先、必然の先
文化祭前日。
学校は、もう完全に別の場所みたいだった。
いつもの廊下には色とりどりの装飾が吊るされ、
教室の扉には手作りの看板が並び、
放課後になっても誰も帰ろうとしない。
段ボールの擦れる音。
笑い声。
誰かが廊下を走って先生に怒られる声。
全部が騒がしくて、
全部が少しだけ愛しかった。
この時間は、きっとすぐ終わる。
だからこそ、
ちゃんと覚えていたいと思った。
蒼の文化祭ポスターは、
昇降口の正面、一番目立つ場所に貼られていた。
青い空。
校舎の屋上。
光の軌道みたいに伸びる白い線。
その先に、
まだ見えない未来。
タイトルは最後まで悩んで、
『イデア』
にした。
冬馬先輩はその文字を見て、
「いいじゃん」
と、いつものように笑った。
それだけだったけれど、
それで十分だった。
「めちゃくちゃ人見てるじゃん」
昼休み。
蒼は何度目かわからないくらい、
昇降口の前を通っていた。
そのたびに、
誰かがポスターの前で立ち止まる。
写真を撮る人。
「これ誰が描いたの?」と話す一年。
ただ黙って見上げる人。
それを見るたびに、
嬉しいような、
恥ずかしいような、
逃げ出したいような気持ちになる。
その全部をまとめて、
たぶん“青春”って言うんだと思った。
隣には、
当然みたいに紗月がいた。
「お前が見に来いって言ったんだろ」
「ここまで挙動不審だとは思わなかった」
「うるさい」
紗月は笑って、
それから少しだけ真面目な顔になった。
「でも、ほんとにすごい」
蒼は視線を逸らした。
そうやって真正面から褒められるのは、
未だに苦手だった。
「ちゃんと形になったね」
その言葉が、
静かに胸に残った。
形になった。
あの夜、
宙を舞っていたものが。
名前もなかった衝動が。
ちゃんとここにある。
午後。
クラスの出し物の準備を手伝って、
気づけば空は少しずつ夕方の色になっていた。
オレンジ色の光が、
校舎の窓を長く照らしている。
文化祭の前日だけが持つ、
あの独特の空気。
まだ始まっていないのに、
もう終わることを少しだけ知っているような。
蒼はスマホを見た。
『屋上、来て』
紗月からだった。
短いその一文だけで、
心拍数が変わる。
非常階段を上る。
最初の夜と同じ場所。
同じ風。
同じ空。
でも、
あの時とはもう
少しだけ違う自分がいた。
扉を開ける。
フェンスの向こう、
夕焼けと夜の境目みたいな空。
その前に、
紗月が立っていた。
制服のスカートが風に揺れる。
振り返った彼女は、
少しだけ緊張して見えた。
「また不法侵入」
蒼が言う。
紗月は笑った。
「共犯だからセーフ」
同じ会話。
でも今日は、
その続きを知っている気がした。
しばらく二人で黙っていた。
遠くで吹奏楽部が音を合わせている。
校庭ではまだ誰かが走っている。
世界はちゃんと続いているのに、
ここだけ少し、
時間が止まっていた。
「文化祭、終わったらさ」
先に口を開いたのは、
紗月だった。
「私、東京行く」
蒼は、一瞬意味がわからなかった。
「……え?」
「母さんの仕事の都合。急に決まった」
風の音だけがする。
頭の中が、
うまく追いつかない。
東京。
転校。
つまり—
「文化祭が終わったら、ここ、いなくなる」
その言葉が、
胸の奥に重く落ちた。
あまりにも静かに。
あまりにも確実に。
なんで今なんだよ。
なんで言わなかったんだよ。
なんで—
いろんな言葉が浮かんで、
でも、何一つちゃんと口にできなかった。
ただ、
失いたくない
その感情だけが
やけに鮮明だった。
紗月は少し笑った。
「だからね、ちゃんと言おうと思って」
その顔が、
少し泣きそうで、
蒼のほうが先に苦しくなった。
「蒼と会えてよかった」
だめだった。
その言葉は、
あまりにもまっすぐすぎた。
「最初、すごい面倒な人だと思ったけど」
「それ今言う?」
「でも」
彼女は一歩近づいて、
静かに言った。
「ちゃんと好きになった」
胸が、
止まりそうになった。
偶然みたいな出会いだった。
たまたま隣の席で。
たまたま同じ帰り道で。
たまたま、あの夜に
屋上へ呼ばれて。
でも、
今ならわかる。
あれは全部、
必然だった。
蒼は息を吸った。
怖かった。
言ったら終わるかもしれない。
でも、
言わなかったら
もっと終わる。
だから。
「……俺も」
声が震える。
情けないくらい。
それでも、
ちゃんと届いてほしかった。
「ずっと、好きだった」
夕焼けが揺れる。
風が吹く。
星が、ひとつ見えた。
紗月は少しだけ泣きそうに笑って、
「遅い」
と言った。
蒼も笑った。
「知ってる」
その距離が、
あと少しだけ近づく。
手を伸ばせば届く。
本当に、
あと少し。
偶然の先。
必然の先。
その場所に、
たしかに
二人は立っていた。
第五章 忘れないでおこう
文化祭当日の朝は、
信じられないくらい晴れていた。
空はどこまでも青くて、
雲ひとつない。
まるで、
この一日のためだけに
用意されたみたいな空だった。
校門をくぐる生徒たちの声も、
朝からやけに明るい。
クラスTシャツ。
手作りの看板。
まだ開いていない模擬店の匂い。
全部が浮ついていて、
全部がちゃんと特別だった。
蒼は昇降口の前で立ち止まる。
正面に貼られた
自分のポスター。
『イデア』
昨日よりも、
ずっと大きく見えた。
たくさんの人が通り過ぎる。
立ち止まる人もいる。
写真を撮る人もいる。
でも今日は、
不思議と恥ずかしくなかった。
ちゃんとここに残るものがある。
そう思えたから。
「朝比奈、顔やばい」
後ろから声がして、
振り返る。
紗月だった。
クラスTシャツ姿。
いつもの制服じゃないだけで、
どうしてこんなに違って見えるんだろうと思う。
「緊張してるだけ」
「文化祭で?」
「いや」
その先を言わなくても、
紗月はちゃんとわかっていた。
少しだけ笑って、
「ちゃんと呼んでね」
と言った。
放課後。
屋上。
昨日の約束。
蒼は小さくうなずく。
胸がうるさい。
一日中ずっと。
文化祭は、
始まってしまえば一瞬だった。
クラスの手伝いをして、
友達に引っ張られて他の教室を回って、
焼きそばを食べて、
演劇部のステージを見て、
中庭で吹奏楽部の演奏を聴いた。
その音が、
やけに胸に残った。
音楽ってずるい。
たった数分で、
一日を一生みたいにしてしまう。
紗月はその演奏を
少し離れた場所で聴いていた。
風に髪が揺れて、
光が横顔に落ちていた。
その景色を見た瞬間、
ああ、
忘れたくない、と思った。
晴天と、
この校舎に流れたあの曲を。
たぶんこの先、
何年経っても。
午後。
最後の片付けが終わる頃には、
校舎の中は急に静かになっていた。
祭りの後の空気。
さっきまであんなに騒がしかったのに、
もう全部が少し遠い。
窓の外は、
また夕焼けだった。
始まりの日と同じ色。
蒼は深く息を吸って、
非常階段を上る。
一段ずつ。
何かを確かめるみたいに。
屋上。
扉を開ける。
そこに、
紗月がいた。
夕焼けの中に立つその姿が、
あまりにも綺麗で、
少しだけ現実じゃないみたいだった。
「来た」
「呼んだのそっちだろ」
「ちゃんと来たじゃん」
また同じ会話。
でも、
もう戻れないことを
二人とも知っていた。
しばらく並んで、
フェンスにもたれる。
風が吹く。
街がオレンジ色に沈んでいく。
「明日、引っ越す」
紗月が静かに言った。
知っていた。
でも、
言葉になると、
やっぱりちゃんと痛かった。
「そっか」
それしか言えなかった。
もっと何か、
ちゃんとした言葉がある気がしたのに。
好きだとか。
行かないでとか。
離れたくないとか。
全部、
今さらみたいで。
全部、
本当だった。
「蒼」
紗月が呼ぶ。
「うん」
「忘れないで」
その声が、
少し震えていた。
「今日のことも、屋上のことも、ポスターのことも」
彼女は笑った。
泣きそうなくせに。
「ちゃんと未来に持ってって」
胸が苦しくなる。
そんなの、
忘れられるわけがない。
「……そっちこそ」
蒼は言う。
「忘れるなよ」
「忘れない」
即答だった。
その速さが、
逆に泣きそうだった。
紗月が、一歩近づく。
風が止まる。
世界が静かになる。
「ねえ」
「ん」
「これはたぶん、偶然じゃなかったよ」
その言葉に、
蒼は小さく笑った。
「うん」
知ってる。
最初から、
たぶんずっと。
偶然の先。
必然の先。
その場所に
二人はいた。
そして、
紗月は背伸びをして、
そっと、
キスをした。
一瞬だった。
本当に、
光をとらえた情景みたいな
淡い一瞬。
でも、
そのたった一瞬が、
人生を全部変えてしまうことを
蒼は知った。
離れたあと、
紗月は少し赤くなって、
「これで忘れないでしょ」
と言った。
蒼はたぶん、
人生で一番情けない顔をしていた。
「……ずるい」
「知ってる」
二人で笑った。
夕焼けの中で。
泣きそうなくらい
綺麗な空の下で。
その日、
青春は終わったんじゃない。
たぶん、
ちゃんと始まった。
忘れないでおこう。
晴天と、
この校舎に流れたあの曲を。
公転と、
僕の軌跡が生み出す人生を。
忘れないでおこう。
この一瞬を。
この恋を。
このイデアを。
第六章 離れても、軌道は続く
紗月が東京へ行ったのは、
文化祭の三日後だった。
あまりにもあっけなくて、
ちゃんと実感が追いつかなかった。
駅のホーム。
最後に見た彼女は、
泣かなかった。
「ちゃんと絵、描き続けてね」
そう言って笑って、
「蒼も、ちゃんと前に進んで」
そう言って、
電車のドアが閉まった。
その瞬間まで、
蒼は何か言わなきゃと思っていた。
行かないで、とか。
離れたくない、とか。
好きだ、とか。
でも、
全部もう知っている言葉で、
全部今さらみたいで、
結局、
「またな」
しか言えなかった。
電車が動き出す。
窓越しに、
紗月が小さく手を振る。
その姿が見えなくなるまで、
蒼はただ立っていた。
六月の風が、
やけに冷たかった。
それからの日々は、
静かだった。
学校は変わらず続く。
授業があって、
友達が騒いで、
先生が眠そうに黒板を書く。
世界は何も失っていないみたいに
普通に回っていく。
でも、
蒼の中だけが
明らかに違っていた。
昼休みの階段の踊り場。
誰もいない。
屋上へ続く非常階段。
扉の向こうには空がある。
でも、
あの場所だけが
少し遠くなった気がした。
夜。
スマホの画面。
『今日、東京すごい雨』
紗月から。
蒼は返信する。
『こっちは晴れてる』
『ずるい』
『知らん』
『冷たい』
そんな、
どうでもいい会話。
でも、
そのどうでもいいことが
ちゃんと救いだった。
離れても、
ちゃんと繋がっている。
そう思えた。
最初のうちは。
七月。
夏が近づく。
蒼は美術室に通い続けていた。
冬馬先輩は受験で忙しくなり、
部室にいる時間は減ったけれど、
それでも時々来ては、
「ちゃんと描いてるな」
とだけ言って帰っていく。
その言葉が、
案外支えになっていた。
進路調査の紙が配られた。
将来の希望欄。
以前なら空白のままだった。
でも今は違う。
美大。
その文字を書く時、
少しだけ手が震えた。
怖かった。
現実になるって、
たぶんこういうことだ。
夢は、遠くで見ている時より
近づいた時のほうが怖い。
それでも、
靴を履いて
未来を待とう。
そう決めたから。
『すごいじゃん』
紗月は、
そのメッセージにすぐ返してきた。
『絶対いける』
その一文だけで、
泣きそうになる。
単純だと思う。
でも、
好きな人の言葉って、
たぶんそれくらい強い。
八月。
夏休み。
会えない時間が
急に現実味を持ち始める。
電話の回数は減った。
紗月は新しい学校に慣れるのに必死で、
蒼も予備校とデッサンで
毎日が埋まっていく。
返信が遅い日。
既読だけつく夜。
たったそれだけで、
胸がざわつく。
自分でも嫌になるくらい。
信じたいのに、
不安になる。
好きなのに、
疑ってしまう。
恋って、
こんなに綺麗じゃないんだと知った。
ある夜。
電話越し。
紗月の声が少し疲れていた。
『ごめん、最近全然連絡できなくて』
「いや、大丈夫」
嘘だった。
全然大丈夫じゃなかった。
でも、
責めたくなかった。
責めたら
壊れてしまいそうで。
『そっちは?』
「まあ、普通」
『絵、描いてる?』
「うん」
沈黙。
たぶん、
お互いに
言いたいことがある。
でも、
それを言葉にする勇気がない。
『……蒼』
「ん」
『ちゃんと、前に進んでる?』
その問いに、
すぐ答えられなかった。
前に進むって、
何だろう。
夢に向かうこと?
君を好きでい続けること?
それとも、
君がいなくても
ちゃんと立っていられること?
わからなかった。
全部、
同じようで違った。
「わかんない」
やっとそう言う。
電話の向こうで、
紗月が小さく笑った。
『それでいいよ』
「適当だな」
『だって、たぶんみんなそうだし』
少しだけ、
安心した。
でも。
その安心の裏側で、
ちゃんと怖かった。
この距離が、
いつか
取り返せないものになる気がして。
電話を切ったあと、
蒼は一人で屋上へ行った。
夏の夜。
ぬるい風。
見上げた空には、
あの日より少し少ない星。
フェンスにもたれて、
目を閉じる。
思い出す。
文化祭の日の夕焼け。
あのキス。
「忘れないで」
という声。
忘れるわけがない。
でも、
覚えていることと
隣にいることは違う。
僕の瞼流る
軌道はいつも同じ。
好きになって、
離れて、
それでもまた
同じ場所へ戻ってしまう。
心は、
どうしてこんなに不器用なんだろう。
空を見上げる。
偶然の先。
必然の先。
もしそこに
本当に未来があるなら。
どうか、
この恋が
終わらない旅でありますように。
そう願った夜もまた、
イデアが溢れて
眠れなかった。
第七章 すれ違いの季節
九月の風は、
夏の終わりをちゃんと知っている。
少しだけ乾いた空気。
夕方が早くなる空。
校舎の窓から差し込む光の角度。
何も言わなくても、
季節だけが
静かに変わっていく。
蒼は相変わらず、
放課後になると美術室へ向かっていた。
木炭の匂い。
白い石膏像。
静かな部屋。
そこだけは、
ちゃんと自分でいられる気がした。
美大の受験は思ったより厳しかった。
描いても描いても足りない。
周りには、自分よりずっと上手い人がいる。
才能って、
こういう時に初めて形を持つ。
帰り道、
自分のスケッチブックが
急に重く感じる日があった。
「向いてないのかもしれない」
その言葉を、
何度飲み込んだかわからない。
紗月との連絡は、
前より確実に減っていた。
既読がつくまでの時間。
返信の短さ。
電話の回数。
数字にすれば
たったそれだけのことなのに、
人の心って
そういうもので簡単に揺れる。
東京には、
蒼の知らない景色がある。
新しい友達。
新しい学校。
新しい毎日。
その中に、
自分がどれくらい残っているのか。
考えないようにしても、
夜になると勝手に考えてしまう。
ある土曜日。
久しぶりに電話がかかってきた。
紗月からだった。
その着信だけで、
心臓が少し速くなる。
「もしもし」
『あ、ごめん急に』
「いや、大丈夫」
少しだけ懐かしい声。
たった数週間なのに、
ちゃんと会いたくなる声だった。
『今、帰り道』
「東京?」
『うん。駅』
雑踏の音が聞こえる。
電車のアナウンス。
誰かの笑い声。
遠い。
その音だけで、
ちゃんと遠い。
『蒼は?』
「美術室帰り」
『ちゃんとしてるじゃん』
「そっちこそ」
『まあね。死にそう』
少し笑う。
こういう会話だけなら、
まだ昔みたいだった。
でも。
ふいに紗月が言った。
『こっちでさ、仲良くなった人がいて』
胸の奥が、
小さく鳴った。
嫌な予感って、
たぶん本当にある。
「……へえ」
『同じクラスの子。すごい話しやすくて』
「そっか」
声が、
思ったより平坦だった。
よかったと思うべきだ。
ちゃんと新しい場所で
笑えていること。
それを願っていたはずなのに。
なのに、
胸のどこかが
ちゃんと痛かった。
『なんか、今の嫌だった?』
紗月は鋭い。
昔からずっと。
「別に」
『嘘』
沈黙。
夜のホームの音だけが
遠くで流れている。
「……嫌だった」
言ってしまった。
言わないほうが
大人なんだと思っていた。
でも、
それはたぶん違った。
「知らないやつの話、聞きたくなかった」
情けない。
子どもみたいだ。
でも、本当だった。
電話の向こうで、
紗月はしばらく黙っていた。
それが余計に怖い。
終わる、
と思った。
このまま。
でも、
『ちょっと安心した』
彼女はそう言った。
「……は?」
『だって、蒼ずっと平気そうだったから』
「平気なわけないだろ」
思ったより強く言ってしまった。
自分でも驚くくらい。
「離れて、会えなくて、
連絡減って、
それで平気なわけないだろ」
息が熱い。
もう止まれなかった。
「でも、重いって思われたくなくて」
「ちゃんと前に進めって言われたから」
「ちゃんとしてなきゃって思って」
言葉が溢れる。
瞳閉じた脳の中を
ずっと漂っていたものが、
ようやく
形を持って外に出る。
『蒼』
紗月の声が、
少し震えていた。
『私だって同じだよ』
その一言で、
世界が止まる。
『東京、楽しいよ。ちゃんと』
『でも、そのたびに思う』
『ああ、これ蒼に見せたかったな、とか』
『この道、一緒に歩けたらよかったな、とか』
『帰り道、電話じゃなくて
隣にいてほしいな、とか』
静かな声だった。
でも、
何よりもまっすぐだった。
『好きって、たぶんそういうことなんだと思う』
涙が出そうだった。
いや、
たぶん少し出ていた。
「……会いたい」
やっとそれだけ言う。
本当に言いたかったのは、
ずっとそれだった。
『うん』
紗月も、
泣きそうに笑っていた気がした。
『私も』
好きだけじゃ
越えられない現実はある。
距離も。
時間も。
将来も。
でも、
好きじゃなきゃ
越えられないものもある。
たぶん、
今二人が立っている場所は
その境目だった。
偶然の先。
必然の先。
その先にある未来を、
まだ信じてみたいと思った。
電話を切ったあと、
蒼は夜空を見上げた。
秋の星は、
夏より少しだけ遠い。
でも、
ちゃんとそこにある。
見えなくても。
離れていても。
消えないものがある。
忘れないでおこう。
この不器用な夜も。
すれ違いながら、
それでも好きだと思ったことも。
全部。
きっと、
未来へ続く軌道だから。
最終章 イデアが溢れて眠れない
それから、三年が過ぎた。
長いようで、
振り返れば一瞬みたいな時間だった。
季節は何度も巡って、
校舎の景色も、
制服の重さも、
少しずつ遠いものになっていった。
朝比奈蒼は、東京にいた。
美大に通いながら、
小さなデザイン事務所でアルバイトをしている。
駅までの道。
満員電車。
忙しない人の流れ。
高校の頃に思い描いていた
“大人”とは少し違ったけれど、
それでも確かに、
自分の足で
未来を歩いていた。
靴を履いて、
ちゃんと。
紗月とは、
あれから何度も会った。
長期休み。
帰省した時。
たまに、急に。
頻繁じゃない。
でも、
不思議なくらい
ちゃんと続いていた。
恋人、という言葉だけでは
少し足りない気がした。
もっと静かで、
もっと根っこのほうにあるもの。
離れても消えないもの。
たぶん、
人生そのものに近かった。
十二月。
冬の空気は、
思い出をよく連れてくる。
その日、蒼は
久しぶりに母校へ向かっていた。
美術部の後輩から、
「文化祭のポスター展やるので、
先輩の作品も飾りたいです」
と連絡が来たのだ。
少し照れくさくて、
でも、嬉しかった。
校門をくぐる。
変わっていない匂い。
冬のグラウンド。
古い校舎。
冷たい風。
全部が一瞬で
あの頃を連れてくる。
昇降口。
そこには、
あの時のポスターがあった。
『イデア』
少し色褪せていた。
でも、
ちゃんと残っていた。
青い空。
屋上。
光の軌道。
あの日の自分が
確かにそこにいた。
何者にもなれない気がして、
それでも
何かになりたくて、
眠れなかった夜。
「やっぱり来てた」
後ろから声がした。
振り返る。
そこにいたのは、
橘紗月だった。
冬のコート。
少し伸びた髪。
でも、
笑い方は
あの頃のままだった。
「なんでいるんだよ」
「後輩に呼ばれた」
「俺も」
「知ってる」
ずるい。
そういうところが
ずっと変わらない。
二人で並んで、
ポスターを見上げる。
少しの沈黙。
でも、
あの頃みたいに
苦しくない沈黙だった。
ちゃんと隣にいられる
静かな時間。
「覚えてる?」
紗月が言う。
「屋上」
「忘れるわけない」
「だよね」
小さく笑う。
あの夜。
嫌いが勝っていた自分。
でも、
僕だけがいる世界を
少し好きになれた夜。
あそこから
全部が始まった。
「ねえ、蒼」
「ん?」
「今、ちゃんと前に進んでる?」
昔と同じ問いだった。
でも、
答えはもう違った。
蒼は少し考えて、
それから笑った。
「わかんない」
紗月が吹き出す。
「またそれ?」
「でも」
蒼はポスターを見た。
あの頃の自分を。
まだ何者でもなかった自分を。
「わかんなくても、
ちゃんと歩いてる」
それだけは
ちゃんと言えた。
遠回りしても。
ぶつかっても。
軌道は続いている。
ちゃんと未来へ。
紗月は静かに頷いた。
それから、
少しだけ真面目な顔で言った。
「じゃあさ」
風が吹く。
冬の匂い。
夕方の光。
「この先も、一緒に歩く?」
その言葉に、
時間が止まった気がした。
何年も前から、
たぶんずっと
答えは決まっていた。
でも、
人生って
ちゃんと口にしないと
進まない瞬間がある。
蒼は息を吸う。
胸が、
久しぶりにうるさい。
高校二年のあの夜みたいに。
「……うん」
声が少し震える。
情けないくらい。
でも、
今ならそれでいいと思えた。
「これからも、
ちゃんと好きでいる」
紗月は、
少しだけ泣きそうに笑った。
「うん」
それだけだった。
でも、
それだけで十分だった。
偶然の先。
必然の先。
天井の先。
星々の先。
宇宙の先。
銀河を超えて。
たぶん、
人生は
そんなふうに続いていく。
間違いなく残るでしょう。
袖伸ばして
未来を待とう。
僕の瞼流る
軌道はいつも同じ。
このイデアが描くでしょう。
靴を履いて
未来を待とう。
まだ、
イデアが溢れて
眠れない。
でももう、
その眠れなさを
怖いとは思わなかった。
それはきっと、
人生が
ちゃんと始まり続けている証だから。
エピローグ 靴を履いて、未来へ
それから、さらに五年が過ぎた。
時間というものは不思議で、
あれほど永遠みたいに思えた高校の三年間より、
そのあとの五年のほうが
ずっと早く過ぎていった気がする。
春。
東京。
柔らかい風が街を通り抜けて、
駅前の桜が少しずつ散り始めていた。
朝比奈蒼は、
小さなデザイン事務所から独立して、
今は自分の名前で
イラストとデザインの仕事をしている。
忙しい。
かなり忙しい。
締切に追われて、
朝まで作業して、
コーヒーばかり飲んで、
ちゃんと寝ろと紗月に怒られる。
高校二年の頃に思い描いていた
“大人”とはやっぱり違ったけれど、
それでも、
あの頃の自分が見たら
ちゃんと羨ましがる人生だと思った。
好きなものを
好きだと言えること。
それだけで、
十分だった。
橘紗月は、
出版社で働いていた。
忙しいのはこっちも同じで、
夜遅くに帰ってきて、
玄関で「無理」とだけ言って
ソファに倒れ込む日もある。
でも、
そんな日ほど
蒼はちゃんと味噌汁を作る。
紗月はちゃんと
それを全部飲む。
そういう生活だった。
二人は、
一緒に暮らしていた。
特別な瞬間よりも、
こういう
何でもない日々のほうが、
ずっと大事なんだと
今は思う。
洗濯物を取り込むこと。
スーパーで
どっちのアイスを買うか揉めること。
仕事の愚痴を聞くこと。
眠る前に
明日の天気を確認すること。
昔の自分なら、
恋ってもっと
劇的なものだと思っていた。
でも本当は、
人生にちゃんと
居続けてくれることなのだと知った。
ある日曜日。
珍しく二人とも休みだった。
昼過ぎ。
散歩でもしようか、
という話になって、
電車に揺られて
少しだけ遠くまで来た。
着いた先は、
あの高校だった。
「なんでここ」
蒼が言う。
紗月は平然としている。
「なんとなく」
絶対嘘だ。
でも、
その“なんとなく”で
ここに来る人だということを、
蒼はもうよく知っていた。
休日の校舎は静かだった。
グラウンドでは
野球部が練習している。
吹奏楽部の音が
どこかから微かに聞こえる。
風の匂い。
春の光。
全部が、
少しだけ懐かしくて、
少しだけ遠い。
昇降口の前。
文化祭のポスターは、
もうなかった。
当たり前だ。
何年経ってると思ってるんだ。
でも、
なくなっていても
ちゃんと残っているものがある。
それで十分だった。
「屋上、行く?」
紗月が言う。
蒼は少し笑った。
「また不法侵入?」
「共犯だからセーフ」
全然反省していない。
非常階段を上る。
一段ずつ。
高校二年の夜みたいに。
でも今は、
あの時より
ずっと軽い足で登れる。
屋上。
扉を開ける。
春の風が吹き抜ける。
あの日と同じ空。
でも、
見える景色は
ちゃんと変わっていた。
フェンスにもたれて、
二人で街を見下ろす。
しばらく、何も言わなかった。
沈黙が苦しくない。
それが、
たぶん大人になったってことだった。
「ねえ」
紗月が言う。
「ん?」
「覚えてる?」
「たぶん、同じ質問三回目」
「大事だから」
笑う。
「ここで、
未来って待つものじゃなくて
迎えに行くものだって言った」
「言ってたな」
「結構いいこと言うじゃん、私」
「自分で言うな」
風が吹く。
袖が揺れる。
春の匂い。
紗月はポケットから
小さな箱を取り出した。
数秒、
蒼の思考が止まる。
「……え?」
「私ばっかり先に言うのも
どうかと思ったけど」
少しだけ照れながら、
でも、
ちゃんとまっすぐに。
「結婚してください」
世界って、
こういう時
本当に静かになるんだと思った。
風の音だけがする。
遠くで誰かが笑っている。
空は、
信じられないくらい青い。
高校二年のあの夜。
眠れなかったこと。
文化祭の夕焼け。
離れていた時間。
何度も不安になったこと。
全部、
ちゃんとここへ続いていた。
偶然の先。
必然の先。
たどり着いた場所。
蒼は笑った。
少しだけ泣きそうだった。
「それ、普通逆じゃない?」
「知ってる」
「ずるいな」
「知ってる」
本当に、
変わらない。
ずっと。
蒼は深く息を吸って、
そして言った。
「お願いします」
紗月が、
泣きながら笑った。
その顔を見て、
ああ、
人生ってちゃんと
こういうふうにできてるんだなと思った。
イデアが溢れて
眠れなかった夜。
あの時の自分へ。
大丈夫だ。
未来はちゃんと来る。
いや、
ちゃんと迎えに行ける。
靴を履いて。
袖を伸ばして。
何度でも。
その夜、
二人はきっと
少しだけ眠れなかった。
でもそれは、
不安じゃなかった。
人生の続きを
ちゃんと愛している証だった。
~完~
他にも『Vaundy』の名曲を紹介しておりますので併せてご覧くださいρ(._.*)ρ





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