『飛ぶ時』Vaundy。”傷だらけのまま飛べ”

Vaundy

本日ご紹介するのは、『Vaundy(バウンディ)』のナンバーから

『飛ぶ時』【作詞・作曲:Vaundy】

歌詞全文はこちらのリンクから→https://www.uta-net.com/song/391257/

Vaundyの「飛ぶ時」は、2026年4月12日に配信リリースされた楽曲で、荒川弘原作の漫画『黄泉のツガイ』のアニメ化に伴い書き下ろされたもの。

この曲の第一印象はとにかく『カッコイイ』ヾ(≧▽≦)ノ
ライブで聴いたら痺れるやろな~♪

この曲は、**“不完全な自分を抱えたまま、それでも前へ飛び立つ瞬間”**を描いた曲です。

テーマとしては、

  • 傷ついた過去
  • 言葉にできなかった感情
  • 自分自身への悔しさ
  • 誰かとの別れや決意
  • それでも進まなければいけない未来

このすべてを「羽」「飛ぶ」というモチーフで表現しています。

つまりこれは、

「痛みも後悔も全部背負ったまま、自分の人生を飛び始める歌」

なんです。


「飛ぶ」とは何か

この曲の“飛ぶ”は、
単純に空を飛ぶことではありません。

それは

  • 過去から離れること
  • 誰かに依存することをやめること
  • 自分で選んで進むこと
  • 恐れながらも未来へ踏み出すこと

を意味しています。

だからこの曲は、

旅立ちの歌
でもあり、

覚悟の歌
でもあります。


「痛みの数だけ それは、僕の静脈を通り」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

ここ、ものすごく重要です。

痛みが

  • 血管を通り
  • 心臓を突き抜け
  • 最後に脳へ届く

という描写。

これは比喩として、

経験した傷が、時間差で人生そのものを変えていく

ことを表しています。

傷って、その瞬間よりも
あとから効いてくる。

忘れた頃に思い出す。

「あれ、まだ痛かったんだ」

ってなる。

それを身体の内部構造で描いてる。

かなりVaundyらしい表現です。


「この小さな、この小さな うらみわびの隙間風」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

ここは

  • 恨み(うらみ)
  • 詫び(わび)

この二つが混ざっています。

つまり

  • 相手を責める気持ち
  • 自分を責める気持ち

その両方。

完全に誰かのせいじゃない。

でも完全に許せもしない。

その曖昧な感情が

「隙間風」

として描かれる。

小さいけど、ずっと寒い。

ずっと残る。

この表現がすごい。


「この不甲斐ない 僕の言葉も涙も全部」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

ここが曲の核です。

主人公は自分を

不甲斐ない

と思っている。

  • 上手く伝えられなかった
  • 守れなかった
  • 変われなかった
  • 情けなかった

そういう自己否定。

でも、

その全部を否定しきらず

「全部」

抱えていこうとしている。

ここが重要。


「気分次第で生えた羽だって」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これは

かなり面白い表現です。

普通、“羽”って

  • 希望
  • 才能
  • 自由

みたいな綺麗なものとして描かれる。

でもここでは違う。

「気分次第で生えた羽」

つまり

  • 衝動
  • 逃避
  • 勢い
  • 不安定な決意

なんです。

ちゃんとした理想じゃない。

でも、それでも羽なんです。


「今は背で受けておくよ全部」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

ここがめちゃくちゃ強い。

逃げないんです。

  • 批判
  • 後悔
  • 痛み
  • 失敗

全部、

背中で受ける。

真正面じゃない。

でも受け止める。

それが大人になるってことでもある。


「ここに置いていくから全部」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これは

過去との決別

です。

忘れるんじゃない。

捨てるんじゃない。

“置いていく”

なんです。

このニュアンスが優しい。

ちゃんと大切だった。

でも持ってはいけない。

だから置いていく。

すごく美しい。


「怖くない この空へ」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

本当は怖いんです。

絶対に。

でも

「怖くない」

と言い聞かせてる。

この強がりがリアル。

人は飛ぶ時、
たいてい震えてる。


「言葉の数だけ」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

一番が“痛み”なら
二番は“言葉”

です。

つまり

  • 傷つけたもの
  • 救えなかったもの
  • 伝えたかったもの

がテーマになる。


「あなたの神経を通り」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

今度は

自分ではなく

“あなた”

です。

つまり

自分の言葉が
相手にどう届いたか。

これは恋愛にも
別れにも読める。

言葉って、

言った瞬間じゃなくて

あとから届く。

忘れた頃に
相手の瞳に現れる。

すごく切ない。


「光飛び散った最中」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これは

  • 喧嘩
  • 別れ
  • 衝突
  • 大きな決断

そういう“人生の閃光”の瞬間。

その中で主人公は

ちゃんとした答えなんて持っていなかった。

だから

「当てはないことを許してくれ」

になる。

完璧じゃない。

それでも進む。

「その鬱蒼としげる兵糧と退路」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

この曲ずっとこれです。

ここは難しいけど深い。

兵糧=生きるための備え
退路=逃げ道

つまり

  • 保険
  • 安全地帯
  • 今の自分を守るもの

です。

それが

“鬱蒼としげる”

つまり

増えすぎている。

守りすぎてる。

慎重すぎる。


「眼前が正解じゃ無いよ」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これは名言です。

今見えてるものが
正解とは限らない。

今の安心が
未来の正解じゃない。

だから

飛べ。

ということ。


「僕の運命を前に 僕がすれ違ってしまう前に」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これが最強。

人生で一番怖いのって

失敗じゃない。

本当の自分を見失うこと

なんです。

自分の運命が目の前にあるのに

自分自身が
それを見逃してしまう。

それが一番怖い。

だから今飛ぶ。


「でも僕の翼だよ全部」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

ここで変わります。

最初は

「気分次第で生えた羽」

だった。

不安定だった。

でも最後は

僕の翼

になる。

「朝焼けに ほら、連なって」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これは

他人任せの希望から

自分の意志へ

変化した瞬間。

めちゃくちゃ重要。


夜を越えて
朝へ向かう。

これは

完全な再生です。

  • 痛み
  • 後悔
  • 別れ
  • 自己否定

全部通って

最後に

朝焼け

が来る。

つまり

救い

です。


この曲を一言で言うと

「傷だらけのまま飛べ」

です。

綺麗になってからじゃない。

完璧になってからじゃない。

今のまま

不完全なまま

飛べ。

それがこの曲。


個人的に一番刺さる一行

「でも僕の翼だよ全部」

Vaundy「飛ぶ時」作詞・作曲:Vaundy

これです。

どれだけ不格好でも

どれだけ偶然でも

それは

ちゃんと

自分の人生なんだ

という宣言。

この一行に
この曲の全部があります。

以上私なりの歌詞解釈でした。

続きまして、この曲を聴いて膨れ上がった私の妄想ストーリ(歌詞解釈)をチラッとお見せいたします
|ω・)チラッ

『飛ぶ時』

第一章 羽の生える夜

春の終わりだった。

夜風はまだ少し冷たくて、駅前の街路樹がざわざわと音を立てていた。終電を逃した人たちの笑い声が遠くに混じるたび、世界はまだちゃんと動いているんだと、湊は思った。

けれど、自分だけが少し取り残されている気がしていた。

二十二歳。

大学を卒業して、四月から都内の小さな広告会社で働き始めた。憧れていた仕事だったはずなのに、毎日は思っていたよりずっと息苦しかった。

企画書は通らない。
会議ではうまく話せない。
先輩に「それ、結局何が言いたいの?」と笑われる。

帰り道、コンビニの明かりだけがやけに優しかった。

「……情けないな」

小さく呟いた声は、夜にすぐ溶けた。

スマホの画面には、未読のメッセージが一件。

——紗菜
『ちゃんとご飯食べてる?』

高校からの付き合いだった。

恋人、というには曖昧で、
友達、というには近すぎる。

お互い何度も離れかけて、それでも気づけば隣にいた。

返信しようとして、やめた。

今の自分を見せるのが、少し怖かった。

弱っているところを見せたら、きっと彼女は優しくする。
その優しさが、今は痛い気がした。

湊は駅前を抜けて、川沿いの遊歩道へ向かった。

昔から、考え事をするときはここだった。

高校の頃、受験に落ちた夜も。
大学で夢を見失いかけた日も。
紗菜と初めて大喧嘩した帰り道も。

全部、この川が知っている。

橋の上で立ち止まり、夜空を見上げる。

都会の空は狭い。

星なんてほとんど見えない。

それでも、風だけはちゃんと空から来る。

そのときだった。

「また、そうやって一人で沈んでる」

後ろから声がした。

振り返ると、白いシャツに薄いカーディガンを羽織った紗菜が立っていた。少し呆れたような顔で、でも目だけは優しい。

「……なんでいるんだよ」

「返信ないから。来ると思った」

「エスパーか」

「幼なじみです」

彼女は当然みたいに隣に立って、川を見下ろした。

しばらく、何も言わなかった。

その沈黙がありがたかった。

無理に励まされるより、
「頑張れ」と言われるより、
ただ隣にいてくれることのほうが、ずっと救いだった。

やがて湊が口を開いた。

「さ、俺さ」

「うん」

「向いてないのかもしれない」

風が吹いた。

言葉は思ったより軽く出たのに、胸の奥はひどく重かった。

「仕事?」

「うん」

「好きなんじゃなかったの」

「好きだった」

過去形にしてしまった自分に、自分で少し傷つく。

「でもさ、好きってだけじゃ、どうにもならないことあるだろ」

「あるね」

「頑張っても、全然届かない」

「うん」

「言葉にしても、ちゃんと伝わらない」

「うん」

「なんかもう、自分が薄っぺらく見えてくる」

紗菜は何も言わなかった。

ただ、静かに聞いていた。

それがありがたくて、少しだけ苦しかった。

「……不甲斐ないよな」

その言葉に、紗菜が初めてこちらを見た。

「それ、自分で言うの好きだよね」

「え?」

「不甲斐ない、とか。情けない、とか。ずっと」

湊は言い返せなかった。

図星だった。

彼女は小さく息を吐いて、空を見上げた。

「じゃあさ」

「?」

「それ全部、背負ったまま飛べばいいじゃん」

「……は?」

あまりにも唐突で、間抜けな声が出た。

紗菜は少し笑った。

「綺麗になってからじゃなくてさ」

風が、彼女の髪を揺らした。

「傷とか、失敗とか、後悔とか、全部あるままで」

彼女は、まっすぐ前を見たまま言った。

「それでも進むしかない時って、あるでしょ」

湊は黙った。

川の流れる音だけが聞こえる。

「羽って、ちゃんとした人にだけ生えるもんじゃないと思う」

「……」

「逃げたい時とか、もう嫌だって時とか、衝動みたいに“どっか行きたい”って思うじゃん」

「……ある」

「それも羽なんじゃない?」

湊は笑ってしまった。

「なんだそれ」

「名言っぽいでしょ」

「だいぶ雑」

「失礼だな」

二人で少し笑った。

久しぶりだった。

ちゃんと笑ったのは。

その瞬間、胸の奥にずっと溜まっていた何かが、少しだけほどけた気がした。

風が吹く。

春の終わりの、少し冷たい夜風。

それはたしかに、自分の背中に触れていた。

まるで、
まだ見えない羽を確かめるみたいに。

「湊」

「ん?」

「飛ぶ時ってさ」

「うん」

「たぶん、いちばん怖い」

彼女の声は、驚くほど静かだった。

「でも、その時にしか見えない景色があるんだと思う」

湊は空を見上げた。

狭い夜空。

それでも、その向こうにはちゃんと朝がある。

怖い。

すごく怖い。

失敗するかもしれない。
また傷つくかもしれない。
何も変わらないかもしれない。

それでも。

「……やってみるよ」

そう言った声は、
少しだけ、自分のものに聞こえた。

紗菜は笑った。

「うん」

「失敗したら?」

「またここに来ればいい」

「その時もいる?」

「たぶん」

「たぶんかよ」

「たぶん、絶対」

また笑う。

夜の川沿いで。

まだ何者でもない二人が、
それでも明日を信じようとしていた。

その夜、湊は初めて思った。

不格好でもいい。

綺麗じゃなくていい。

この痛みも、
この涙も、
この情けなさも。

全部、自分のものだ。

だったらきっと、

この羽も、

ちゃんと、
自分の翼になれる。

第二章 向かい風の朝

次の日の朝、目が覚めた瞬間から、胸の奥に妙な重さが残っていた。

昨夜、紗菜と話したこと。

橋の上で見上げた夜空。

「全部、背負ったまま飛べばいい」

あの言葉が、何度も頭の中を回っていた。

寝不足のせいかもしれない。
それとも、ようやく少しだけ前を向こうとしているせいかもしれない。

カーテンの隙間から差し込む朝日が、やけに眩しかった。

スマホを見る。

紗菜からメッセージ。

『起きろ社会人』

その一言に、思わず笑ってしまう。

『起きてる』

すぐに返信すると、数秒後。

『えらい』

それだけ。

なのに、少し救われる。

たったそれだけのことで、人は今日を始められる。

不思議だ。

電車は相変わらず人で溢れていた。

満員の車内。
吊り革。
スマホを見る顔。
眠そうな会社員。
誰かの香水。
朝のニュース。

みんな、自分の人生を抱えて立っている。

そう思うと、少しだけ気が楽になった。

会社に着く。

ガラス張りのオフィス。
白い蛍光灯。
静かなキーボードの音。

湊は深呼吸して、自分の席に座った。

デスクの上には、昨日突き返された企画書。

赤い修正だらけ。

“もっと具体的に”
“感情じゃなくて根拠”
“君にしか出せないものは?”

最後の一文が、一番刺さっていた。

君にしか出せないものは?

そんなもの、自分にあるのか。

しばらくその文字を見つめていた時だった。

「おはよう」

低い声。

顔を上げると、先輩の柏木がコーヒー片手に立っていた。

三十代前半。
仕事ができて、無駄なことを言わない人。

怖い、というより、
ちゃんと見透かされている感じがして苦手だった。

「……おはようございます」

柏木は企画書をちらりと見た。

「まだ引きずってる?」

「いや……まあ」

「ならよかった」

「え?」

「引きずらないやつは伸びない」

思わず、目を瞬いた。

柏木は椅子にもたれながら続けた。

「傷つかないやつっているだろ。何言われても平気な顔してるやつ」

「はい」

「でもあれ、大抵ちゃんと考えてないだけ」

湊は黙る。

「刺さるってことは、ちゃんとやってるってことだ」

柏木はコーヒーを一口飲んだ。

「お前、言葉を綺麗にまとめようとしすぎ」

「……」

「伝わるかどうかより、嫌われないかを気にしてる」

図星だった。

痛いくらいに。

「企画って、自分の“これが好きだ”を押し付ける仕事なんだよ」

「……押し付ける」

「そう。ちゃんとわがままでいろ」

柏木はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。

残された湊は、しばらく動けなかった。

昨夜の紗菜の言葉と、今の柏木の言葉が、奇妙なくらい重なっていた。

背負ったまま飛べ。

ちゃんとわがままでいろ。

どっちも、
「ちゃんと自分でいろ」
と言っている気がした。

昼休み。

一人で近くの公園のベンチに座る。

コンビニのサンドイッチは、いつも少し味気ない。

春の風が吹く。

制服姿の高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。

その光景に、不意に高校時代を思い出した。

放課後。
教室の窓。
夕焼け。
紗菜の横顔。

あの頃は、
未来はもっと簡単に手に入ると思っていた。

好きなことを仕事にして、
好きな人とちゃんと笑って、
それなりに格好よく大人になるんだと。

現実は全然違った。

泥くさい。
不器用だ。
格好悪い。

でも、もしかしたら。

それでもいいのかもしれない。

綺麗じゃなくていい。

ちゃんと飛べれば。

スマホが震えた。

紗菜からだった。

『今日、帰り空いてる?』

湊は少し考えて、返信する。

『たぶん』

すぐ返ってくる。

『たぶんじゃなくて』

思わず笑う。

『空いてる』

『よろしい』

そのあと、少し間があって。

『話したいことある』

その一文に、指が止まった。

胸の奥が、少しざわつく。

なんだろう。

嫌な予感ではない。

でも、簡単に息ができなくなるような。

そんな静かな波。

『了解』

それだけ返した。

午後の仕事。

湊はもう一度、企画書を開いた。

赤字だらけの紙。

昨日までは、ただの敗北だった。

でも今日は少し違う。

これは終わりじゃない。

ここからだ。

ペンを持つ。

深呼吸。

自分にしか出せないもの。

そんな大それたものじゃなくていい。

自分が本当に好きなもの。
ちゃんと悔しかったこと。
言葉にしたい景色。

それを書けばいい。

川沿いの夜。

風。

怖いけど、進むこと。

飛ぶ時の、人の顔。

自然と、ペンが動き始めた。

向かい風だった。

でも、不思議と嫌じゃなかった。

むしろ、
ちゃんと飛んでいる気がした。

その日の夕方。

空は少しだけ、夏の色をしていた。

そして湊はまだ知らない。

今夜、
紗菜の「話したいこと」が、

自分の人生を
静かに変えてしまうことを。

第三章 置いていけないもの

夕方の空は、春と夏のあいだみたいな色をしていた。

青の中に、少しだけオレンジが滲んでいる。

会社を出た湊は、駅前の人混みを抜けながら、何度もスマホを見ていた。

紗菜から送られてきた待ち合わせ場所は、高校の頃によく通った小さな喫茶店だった。

駅から少し離れた、古い商店街の端。

木の扉と、少し色褪せた看板。
コーヒーの匂いが、いつも外まで漂っている。

大学に入ってからは、あまり来なくなった場所だった。

懐かしい、というより。

少しだけ、怖い場所。

あの頃の自分が、まだそこにいる気がして。

扉を開ける。

カラン、と鈴の音。

窓際の席で、紗菜はもう待っていた。

白いブラウスに、淡いベージュのスカート。
肩まで伸びた髪が、夕陽を受けて少しだけ赤く見えた。

「遅い」

「五分だろ」

「女の子を待たせました」

「昔から理不尽だな」

「知ってる」

そう言って笑う顔が、昔と同じで。

でも、ちゃんと大人になっていて。

その変化が、少しだけ胸に刺さった。

注文を済ませる。

アイスコーヒーと、いつものプリン。

高校生の頃、お金がなくて二人で半分ずつ食べていたやつだ。

「懐かしいな」

「湊、カラメルだけ異常に好きだった」

「今も好き」

「知ってる」

また、そんなふうに笑う。

こういう時間がずっと続けばいいのに、と一瞬思ってしまう。

でも、そういう時ほど。

人は、大事な話をする。

沈黙が少しだけ長くなったあと、紗菜が口を開いた。

「私、来月から大阪行く」

時間が、一瞬だけ止まった気がした。

「……え?」

聞こえなかったわけじゃない。

ただ、脳が理解を拒んだ。

「転勤」

その一言が、思ったより鋭く胸に刺さる。

「え、ちょっと待って」

「うん」

「なんで今」

「今日、正式に決まった」

「いつまで」

「たぶん、最低でも二年」

二年。

その数字の重さに、言葉が出なくなる。

たった二年。

でも、
たぶん人生って、その二年で全部変わる。

湊はアイスコーヒーに触れた。

グラスが冷たい。

なのに、指先だけ妙に熱かった。

「……そっか」

やっと出た言葉が、それだった。

もっと何かあるだろ、と自分でも思う。

引き止めるとか。
驚くとか。
寂しいとか。

でも、どれも喉の奥で引っかかって出てこなかった。

紗菜はそんな湊を見て、少しだけ笑った。

「そういうとこだよ」

「え?」

「大事な時ほど、ちゃんと言わない」

痛い。

図星すぎて、痛い。

「……別に」

「別に、じゃない」

彼女の声は優しかった。

優しいのに、逃げられなかった。

「高校の時もそうだった」

窓の外、夕陽が少しずつ沈んでいく。

「大学の時もそう」

紗菜は、まっすぐこちらを見た。

「私が好きって言いかけた時も」

湊の呼吸が止まる。

「……え」

「気づいてたでしょ」

何も言えなかった。

気づいていた。

ずっと。

でも、見ないふりをした。

関係が壊れるのが怖かった。

今の距離がなくなるのが怖かった。

だから、
知らないふりをした。

最低だ。

本当に。

「……ごめん」

ようやく出た言葉が、それだった。

情けなくて、泣きたくなる。

紗菜は少しだけ首を振った。

「責めたいわけじゃない」

「……」

「ただ、ちゃんと知っててほしかった」

静かな声だった。

怒っていない。
泣いてもいない。

だから余計に、苦しかった。

「私、ずっと待ってた」

その言葉に、胸の奥の何かが崩れる。

「湊が、自分でちゃんと選ぶのを」

選ぶ。

その言葉が重い。

仕事も。
未来も。
誰を好きでいるかも。

全部。

自分で。

「でもね」

紗菜は、少しだけ笑った。

「人って、待ってるだけじゃダメなんだって最近わかった」

夕陽が、彼女の横顔を照らしていた。

綺麗だった。

ずっと隣にいたのに、
今さら気づくくらい。

ちゃんと、綺麗だった。

「だから、行く」

大阪に。

自分の仕事をして。
自分の人生を選んで。

ちゃんと飛ぶために。

それは、きっと。

自分が昨夜言われたことと同じだった。

全部背負ったまま、飛べ。

怖くても。

「……ずるいな」

気づけば、そんな言葉がこぼれていた。

「何が」

「先に飛ぶなよ」

紗菜が、少し目を丸くして。

それから、泣きそうに笑った。

「遅いんだよ」

その顔を見た瞬間。

湊はようやく、自分が何を置いていけなくて、何を置いていかなきゃいけないのかを知った。

仕事の失敗じゃない。

過去でもない。

怖かったのは、

失うことじゃなかった。

ちゃんと手を伸ばして、
それでも届かないことだった。

だから、逃げていた。

でも。

もう、それじゃ駄目だ。

「紗菜」

声が震える。

情けないくらい。

それでも、ちゃんと。

「俺、お前のこと」

その続きを言おうとした時。

喫茶店のドアが開いて、
けたたましい鈴の音が鳴った。

店主の「いらっしゃい」が響く。

あまりにも間が悪くて、
二人同時に吹き出してしまった。

涙が出るくらい笑った。

そのせいで、
大事な言葉は少しだけ先延ばしになった。

でも、たぶん。

今度はちゃんと言える。

逃げずに。

向かい風の中でも。

ちゃんと、自分の足で。

夜はまだ来ない。

夕焼けは、ちゃんと明日の色をしていた。

第四章 向かい風の告白

喫茶店を出た頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。

昼と夜の境目。

この時間が、昔から少し苦手だった。

何かが終わる気がして、
でも何かが始まる気もして、
胸の奥が落ち着かなくなる。

商店街を抜ける。

古い八百屋の前を通り、
高校の帰りによく寄ったコンビニの前を過ぎる。

自然と、二人の足は川沿いへ向かっていた。

あの橋。

昨夜、湊が一人で立っていた場所。

そして紗菜が迎えに来た場所。

まるで最初から、
ここに戻ってくることが決まっていたみたいだった。

川の水は静かに流れていた。

夕暮れの光を細かく砕きながら。

橋の真ん中で、二人は立ち止まる。

風が吹く。

春の終わりの風。

少しだけ冷たくて、
でもちゃんと夏の匂いがする。

しばらく、何も言わなかった。

喫茶店で言いかけた言葉が、
喉の奥で何度も引っかかる。

さっきまで言えそうだったのに。

いざとなると、
怖い。

もし届かなかったら。

もし遅すぎたら。

もし、もう間に合わなかったら。

人は、
飛ぶ時が一番怖い。

本当に、その通りだと思った。

「湊」

紗菜が、先に口を開いた。

「うん」

「また逃げる?」

心臓が、大きく鳴った。

彼女は笑っていない。

まっすぐ、こちらを見ていた。

逃げ道なんて、
最初から用意されていなかった。

湊は、小さく息を吐いた。

「……逃げたくは、ある」

「正直でよろしい」

「でも」

言葉を探す。

綺麗な言葉じゃなくていい。

ちゃんと、自分の言葉で。

柏木の言葉が浮かぶ。

ちゃんと、わがままでいろ。

湊は紗菜を見た。

ずっと隣にいた人。

当たり前みたいに、
ずっとここにいた人。

だからこそ、
失うのが怖かった。

でも、
失うのが怖いからって、
何も言わないまま終わる方が、
たぶんもっと怖い。

「俺さ」

声が少し震える。

それでも続ける。

「ずっと、お前に甘えてた」

紗菜は何も言わない。

「いてくれるのが当たり前で」

「うん」

「だから、ちゃんと選ばなかった」

風が吹く。

背中を押されるみたいだった。

「傷つくのが怖くて」

「うん」

「嫌われるのが怖くて」

「うん」

「でも一番怖かったのは」

そこで一度、言葉が止まる。

胸が苦しい。

情けないくらい。

でも、それでいい。

不格好でも。

ちゃんと飛ぶなら。

「お前がいなくなることだった」

紗菜の目が、少しだけ揺れた。

湊は、もう止まらなかった。

「仕事もうまくいかなくて」

「自分のことも好きになれなくて」

「何も持ってない気がして」

「だから、好きって言う資格なんてないって思ってた」

笑ってしまう。

ひどい理屈だ。

でも、本当にそう思っていた。

「でも違った」

橋の向こう、
街の灯りが少しずつ点き始める。

「ちゃんと不甲斐ないままでも」

「ちゃんと情けないままでも」

「それでも、言わなきゃいけない時があるって」

紗菜が静かに聞いている。

そのことが、
今はもう怖くなかった。

「紗菜」

名前を呼ぶ。

ちゃんと。

逃げずに。

「好きだ」

川の音。

風の音。

遠くを走る電車の音。

世界が、少しだけ静かになった気がした。

「ずっと、好きだった」

「たぶん、思ってたよりずっと前から」

「だから」

喉が熱い。

でも、最後まで。

「行かないで、って言いたい」

紗菜の瞳が揺れる。

「でも」

湊は笑った。

ちゃんと笑えた。

「ちゃんと飛んでほしい」

それが本音だった。

好きだから、
止めたい。

好きだから、
行ってほしい。

矛盾してる。

でも、恋ってたぶん、
そういうものなんだと思う。

「だから」

一歩、前に出る。

「俺も飛ぶ」

逃げない。

ちゃんと追いかける。

自分の人生を。

自分の言葉で。

「大阪でも」

「その先でも」

「ちゃんと隣にいたい」

紗菜は、
しばらく何も言わなかった。

ただ、じっとこちらを見ていた。

やがて。

ぽろり、と。

一粒だけ涙が落ちた。

それを見た瞬間、
湊の方が泣きそうになった。

「……ほんとに」

紗菜が、小さく笑う。

涙混じりの声で。

「遅い」

「ごめん」

「ほんとに遅い」

「うん」

「最低」

「知ってる」

「ばか」

「それも知ってる」

紗菜は泣きながら笑った。

そして。

「私も、好き」

その一言で。

世界が、
ちゃんと動き出した気がした。

ずっと止まっていた時間が、
ようやく前に進んだ。

彼女が一歩近づく。

距離が、なくなる。

夕焼けと夜のあいだ。

向かい風の橋の上で。

二人は初めて、
ちゃんと恋人になった。

完璧じゃない。

不器用で、
遠回りして、
情けなくて。

それでも。

これが、自分たちの飛ぶ時だった。

夜空の向こうには、
ちゃんと朝が待っている。

怖くない。

——いや、
たぶん、まだ怖い。

それでも。

この人となら。

ちゃんと飛べる気がした。

第五章 それぞれの空へ

告白の夜から、一週間が過ぎた。

世界は何も変わらないようでいて、
確かに少しずつ変わっていた。

朝の電車は相変わらず満員だし、
会社では相変わらず企画書が赤くなる。

柏木は相変わらず容赦がないし、
コンビニのコーヒーは相変わらず少し薄い。

でも。

スマホを開けば、
「おはよう」がある。

仕事で落ち込んだ帰り道に、
「ちゃんとご飯食べて」が届く。

夜、眠る前に
「おやすみ」と送る相手がいる。

それだけで、
世界の輪郭は少し変わる。

不思議なくらいに。

橋の上で恋人になった翌日、
二人は妙にぎこちなかった。

高校生みたいだ、とお互い笑った。

今さら手を繋ぐだけで緊張して、
駅前で別れる時に何を言えばいいかわからなくなる。

長年の幼なじみが、
たった一言で恋人になるわけじゃない。

少しずつ。

ちゃんと変わっていく。

それが、むしろ嬉しかった。

六月。

空気の中に、夏の気配が濃くなっていく。

紗菜の大阪行きまで、
あと三週間。

その現実だけが、
静かに近づいてきていた。

ある金曜日の夜。

湊は会社に残っていた。

窓の外はもう暗い。

オフィスにはキーボードの音だけが響いている。

机の上には、三度目の企画書。

今度こそ通したい。

いや、
通したいじゃない。

通す。

初めて、そう思っていた。

テーマは
「人が一歩を踏み出す瞬間」。

以前の自分なら、
もっとそれらしい言葉で飾っていたと思う。

でも今は違う。

怖いこと。
情けないこと。
向かい風の中で、それでも進むこと。

ちゃんと、自分の言葉で書いた。

川沿いの夜も。
橋の上の告白も。

もちろん直接は書かない。

でも、
そこにある温度だけは、
ちゃんと入れたつもりだった。

背後から声がした。

「まだいる」

柏木だった。

「帰らないんですか」

「お前が帰らないから」

「怖い先輩ですね」

「知ってる」

柏木は企画書を手に取った。

無言で読む。

その数十秒が、
何時間にも感じた。

やがて。

「……これ」

「はい」

「やっと、お前っぽい」

その一言に、
思わず呼吸が止まった。

柏木は紙を戻す。

「綺麗にしようとしすぎるなって言っただろ」

「……はい」

「やっと汚れたな」

それはたぶん、
褒め言葉だった。

湊は小さく笑った。

「ありがとうございます」

柏木は少しだけ目を細めた。

「飛ぶ時ってな」

突然そんなことを言う。

「大抵、誰かに背中押されてる」

湊は黙った。

「でも飛んだ後は、自分で飛ぶしかない」

その言葉が、
まっすぐ胸に入ってきた。

まるで、
今の自分のためにあるみたいに。

「……はい」

柏木はそれ以上何も言わず、
先に帰っていった。

残されたオフィス。

窓の外に、夜の街。

湊は企画書を見つめた。

もう、
怖いだけじゃなかった。

ちゃんと進んでいる。

そう思えた。

その帰り道。

駅前で紗菜と待ち合わせた。

金曜の夜、
少し浮ついた街の中。

二人で歩く。

特に目的地なんてない。

ただ、一緒に帰るだけ。

それだけで十分だった。

「仕事どうだった?」

「ちょっと褒められた」

「すごいじゃん」

「めちゃくちゃ珍しい」

「赤飯だね」

「そこまでではない」

笑いながら歩く。

信号待ち。

並んで立つ。

ふと、紗菜が言った。

「ねえ」

「ん?」

「離れるの、やっぱり寂しい?」

その問いに、
湊は少しだけ空を見た。

正直に言うなら。

めちゃくちゃ寂しい。

今すぐ、
行かないでと言いたい。

ずっと隣にいてほしい。

でも。

「……うん」

ちゃんと頷く。

「すごく寂しい」

紗菜も小さく頷いた。

「私も」

青信号になる。

人が流れ出す。

その中で、
二人だけ少し立ち止まっていた。

「でも」

湊が言う。

「寂しいから、ちゃんと頑張れる気もする」

紗菜がこちらを見る。

「追いつきたいって思うし」

「負けたくないし」

「ちゃんと隣に立てる自分でいたい」

紗菜は、少しだけ泣きそうに笑った。

「そういうとこ、好き」

心臓に悪い。

本当に。

「今言うなよ」

「今だから言う」

ようやく信号を渡る。

夜風が吹く。

もうすぐ夏だ。

別れは近い。

でも、
終わりじゃない。

むしろ始まりだ。

それぞれの空へ飛んでいくための。

手を繋ぐ。

ぎこちなく。

でも、ちゃんと。

重なった体温が、
ちゃんと未来を信じさせてくれる。

離れても。

向かう場所が違っても。

きっと大丈夫だと思えた。

羽は、
もうちゃんと生えていた。

第六章 飛ぶ日のホーム

七月。

夏は、思っていたより早く来た。

駅までの道に蝉の声が混じり始めて、
アスファルトの熱が、夜になっても残るようになった。

紗菜が大阪へ行く日。

その朝は、驚くほど普通だった。

空は晴れていて、
雲は白くて、
コンビニの前では高校生がアイスを食べていた。

世界はこんなにも平然としているのに、
自分の中だけが少し騒がしい。

湊は何度もスマホを見た。

昨夜のメッセージ。

『寝坊しないでね』

『子どもじゃない』

『信用がない』

『ひどい』

最後に届いた、

『ちゃんと来て』

その一文が、
今も胸の奥に残っている。

ちゃんと来て。

たったそれだけなのに、
まるで人生の答えみたいだった。

東京駅。

新幹線ホームは、
旅立ちの匂いがする。

スーツケースの音。
発車ベル。
駅員のアナウンス。
誰かの「またね」。

ここにはいつも、
始まりと終わりが同時にある。

改札の前で、
紗菜はもう待っていた。

白いシャツに、
ネイビーのロングスカート。

隣には大きなキャリーケース。

その現実感に、
ようやく本当に今日なんだと思い知らされる。

「遅い」

「十分前」

「女の子を待たせました」

「その理論まだ使うのか」

「一生使う」

いつものやり取り。

なのに、
少しだけ声が震えているのが、
お互いにわかった。

改札の向こうでは、
新幹線が静かに待っていた。

あと二十分。

たった二十分。

短すぎる。

でも、
こういう時ほど、
時間はやけに速い。

二人でベンチに座る。

人の流れを眺めながら、
他愛のない話をした。

大阪で住む部屋のこと。

職場のこと。

向こうのたこ焼きは本当に美味しいのか。

そんな、
どうでもいい話。

たぶん、
本当に大事なことほど、
最後までうまく言えない。

「湊」

紗菜が呼ぶ。

「ん?」

「ちゃんと寝るんだよ」

「急に母親みたいなこと言うな」

「夜中に変な自己嫌悪するでしょ」

「否定できない」

「ちゃんとご飯食べて」

「はい」

「仕事、ちゃんとわがままでいて」

その言葉に、
少しだけ笑った。

「柏木さんみたいなこと言う」

「いい先輩じゃん」

「怖いけどな」

「でも、たぶんちゃんと見てくれてる」

「……うん」

紗菜は頷いた。

「私もそうする」

「何を?」

「ちゃんと飛ぶ」

その言葉が、
まっすぐだった。

不安がないわけじゃない。

寂しくないわけじゃない。

でも、
それでも進む。

その顔を見て、
本当にこの人が好きだと思った。

強いからじゃない。

怖いまま進むから。

それが、
すごく綺麗だった。

発車案内が鳴る。

あと十分。

心臓が少しずつ重くなる。

言わなきゃいけないことがある気がして、
でも何を言えばいいのかわからない。

頑張れ、じゃ軽い。

寂しい、じゃ足りない。

好き、だけでも足りない。

人生の分かれ道って、
どうしてこんなに語彙がなくなるんだろう。

立ち上がる。

改札の前。

いよいよ、
その時が来る。

「じゃあ」

紗菜が笑う。

泣きそうなのに、
ちゃんと笑う。

ずるいと思った。

「うん」

「行ってくる」

その一言で、
胸の奥がきしむ。

行ってくる。

帰ってくる前提の言葉。

それが、
たまらなく嬉しかった。

湊は小さく息を吸った。

そして。

「待ってる」

自分でも驚くほど、
まっすぐ声が出た。

「ちゃんと、待ってる」

紗菜の目が揺れる。

「でも」

湊は続ける。

「待ってるだけじゃない」

「……うん」

「俺もちゃんと進む」

「ちゃんと仕事して」

「ちゃんと、自分のこと好きになって」

「次に会う時、ちゃんと隣に立てるようにする」

喉が熱い。

それでも。

最後まで。

「だから」

一歩近づく。

周りの人なんて、
もう見えていなかった。

「離れても、ちゃんと好きでいる」

紗菜は、
とうとう泣いた。

ぽろぽろと、
綺麗に。

それを見たら、
自分まで危なかった。

「……ほんとに」

涙声で笑う。

「そういうとこ、ずるい」

「知ってる」

「遅いし」

「それも知ってる」

「でも」

彼女は泣きながら、
ちゃんと笑った。

「大好き」

その言葉を、
一生忘れないと思った。

短く抱きしめる。

夏の匂い。

駅の音。

発車ベル。

全部が、
この瞬間に焼きつく。

離れる。

改札の向こうへ。

何度も振り返りながら。

最後に、
紗菜は大きく手を振った。

湊も振り返す。

笑って。

ちゃんと笑って。

新幹線が走り出す。

白い車体が、
夏の光の中を遠ざかっていく。

見えなくなるまで、
ずっと立っていた。

寂しい。

どうしようもなく。

胸が空っぽになるくらい。

それでも。

不思議と、
前を向ける気がした。

これは喪失じゃない。

旅立ちだ。

終わりじゃない。

飛ぶ時だ。

湊は空を見上げた。

真っ青な夏空。

あの日見た夜空の、
ちゃんと続きだった。

怖くない。

いや、
やっぱり少し怖い。

それでも。

この空へ。

風に靡く羽に、
ちゃんと従って。

第七章 明日を目指す夜

紗菜が大阪へ行って、一ヶ月が過ぎた。

七月の終わり。

東京の夜は、熱を持ったままだった。

窓を開けても涼しくはならなくて、
遠くで誰かがしている花火の音だけが、夏を思い出させる。

部屋のテーブルには、
コンビニの冷やし中華と、
開きっぱなしのノートパソコン。

そして、
紗菜との通話画面。

「……それで、そのクライアントがさ」

『うん』

「いや絶対無茶振りなんだって」

『湊、それこの前も言ってた』

「え」

『三回目』

「そんなに?」

『ちゃんと疲れてるね』

画面の向こうで、紗菜が笑う。

大阪の小さなワンルーム。

白い壁。
後ろに見える観葉植物。
まだ少し慣れない生活の匂い。

画面越しなのに、
ちゃんとそこに彼女の暮らしがあることが、
少し寂しくて、
ちゃんと嬉しかった。

「そっちは?」

『今日ね、初めて一人でプレゼン任された』

「え、すごいじゃん」

『死ぬかと思った』

「それはわかる」

『声、震えてたと思う』

「でもやったんだろ」

紗菜は少し照れたみたいに笑った。

『うん』

その「うん」が、
たまらなく誇らしかった。

離れているのに。

いや、
離れているからこそ。

ちゃんとお互いの頑張りが見える。

それは、
思っていたよりずっと大切だった。

「会いたいな」

気づけば、
口からこぼれていた。

紗菜が少しだけ目を丸くする。

『珍しく素直』

「最近、努力してるから」

『えらい』

「知ってる」

二人で笑う。

笑ったあと、
少しだけ沈黙が落ちた。

嫌な沈黙じゃない。

会えない時間を、
ちゃんと抱きしめるみたいな静けさ。

『私も』

紗菜が、小さく言った。

『すごく会いたい』

その一言で、
疲れが全部どこかへ行く気がした。

本当に、
言葉ってすごい。

忘れた頃に届いて、
ちゃんと人を救う。

「来月、そっち行く」

『え』

「有休取る」

『え、ほんとに?』

「うん」

『やばい』

「やばいな」

『部屋ちゃんと片付けなきゃ』

「そこ?」

『重要です』

また笑う。

画面越しなのに、
ちゃんと同じ夜を過ごしている気がした。

通話を切ったあと。

静かになった部屋で、
湊は一人、天井を見上げた。

昔の自分なら。

きっと、
距離を理由に諦めていた。

忙しさを理由に、
言葉を飲み込んでいた。

でも今は違う。

ちゃんと好きだと言う。

ちゃんと会いたいと言う。

ちゃんと追いかける。

不格好でも。

それが、
自分の翼だから。

スマホが震える。

紗菜からメッセージ。

『あとね』

『ちゃんと好きでいてくれてありがとう』

その文字を見た瞬間、
胸の奥が熱くなった。

湊はしばらく返信できなかった。

ありがとうなんて、
本当はこっちの言葉だった。

何度も、
何度も救われてきた。

橋の上でも。
会社でも。
ホームでも。

飛べたのは、
きっと彼女がいたからだ。

でも。

飛び続けるのは、
自分でやるしかない。

柏木の言葉を思い出す。

飛んだ後は、自分で飛ぶしかない。

その通りだ。

だから。

湊はスマホを握って、
静かに文字を打った。

『こちらこそ』

少し考えて。

また、続ける。

『次会う時、もっとちゃんと格好よくなってる予定』

すぐに返ってくる。

『予定なの?』

『努力目標』

『信用ならない』

『ひどい』

『でも』

少し間があって。

『楽しみにしてる』

その一文に、
自然と笑ってしまった。

窓の外。

夜の向こうに、
少しだけ朝の気配がある。

まだ遠い。

でも、
ちゃんとそこにある。

人生ってたぶん、
こういうことなんだと思った。

劇的な奇跡じゃなくて。

毎日の小さな選択。

言うか、言わないか。
進むか、逃げるか。
好きだと伝えるか、黙るか。

その積み重ねが、
いつか空になる。

湊は立ち上がり、
机の上の企画書を開いた。

新しい案件。

新しい挑戦。

向かい風は、
相変わらず吹いている。

でももう、
それを嫌だとは思わなかった。

風があるから、
飛べる。

夜空の下。

まだ不完全なままで。

それでも。

ちゃんと明日を目指していた。

最終章 朝焼けに連なって

八月。

大阪の空は、東京より少しだけ広く見えた。

新幹線を降りた瞬間、
むわっとした熱気が身体を包む。

ホームに響くアナウンス。
知らない方言。
旅行客の笑い声。

たった数百キロ離れただけなのに、
ちゃんと別の街だった。

湊は小さく息を吐いた。

有休を取って、
二泊三日の大阪。

仕事を理由に先延ばしにしないと決めた。

会いたいなら、会いに行く。

それだけのことなのに、
昔の自分にはできなかった。

改札を抜ける。

人の波の向こう。

白いワンピースに、
髪をひとつに結んだ紗菜が立っていた。

目が合う。

その瞬間。

お互い、同時に笑っていた。

走る。

人目なんて気にならないくらい。

気づけば、
ちゃんと抱きしめていた。

「……会いたかった」

先に言ったのは、
どっちだったかわからない。

たぶん、同時だった。

紗菜の肩が少し震えている。

自分もきっと同じだった。

会えない時間は、
ちゃんと寂しかった。

でも。

その分だけ、
この瞬間がちゃんと嬉しい。

「痩せた?」

「それ、再会一発目?」

「重要事項です」

「失礼だな」

「ちゃんと食べてない顔してる」

「それはちょっとある」

「ほら」

変わらない。

でも、
ちゃんと変わっている。

それが嬉しかった。

大阪の街を二人で歩く。

たこ焼きを食べて、
暑いって文句を言って、
駅ビルの展望台で夜景を見る。

特別なことなんて、
何もしていない。

でも、
好きな人といる時間は、
それだけでちゃんと特別だった。

夜。

淀川沿いの土手。

人も少なくて、
風だけが静かに吹いている。

遠くの街の灯りが、
水面に揺れていた。

「なんか」

紗菜が言う。

「結局、橋とか川とか好きだよね私たち」

湊は笑った。

「人生の大事なこと、だいたい橋の上で決まってる」

「確かに」

二人で並んで座る。

夏の夜。

少し湿った風。

この空気を、
きっとずっと忘れない。

「仕事、どう?」

湊が聞く。

紗菜は少し空を見た。

「大変」

「うん」

「めちゃくちゃ悔しい日もある」

「うん」

「帰りたくなる日もある」

その横顔が、
少しだけあの日の橋の上と重なった。

怖いまま進む人。

それが、この人だ。

「でも」

紗菜は笑った。

「ちゃんと飛んでる感じはする」

その言葉に、
胸の奥が静かに熱くなる。

「湊は?」

「同じ」

本当に、そのままだった。

うまくいかない日もある。

自分が嫌になる日もある。

企画が通らない日も、
一人で落ち込む夜もある。

でも。

ちゃんと飛んでいる。

それだけは、
今なら言える。

「さ」

湊は、少しだけ深呼吸した。

夜空を見上げる。

星は少ない。

でも、
ちゃんと朝に続いている空。

「俺さ」

「うん」

「まだ全然、格好よくなれてない」

紗菜が笑う。

「知ってる」

「ひどい」

「でも」

彼女は優しく続けた。

「前よりずっと好き」

その言葉に、
心臓が変な音を立てる。

ずるい。

本当に。

湊は苦笑して、
ポケットに手を入れた。

小さな箱。

何度も迷って、
何度もやめようと思って、
それでも持ってきたもの。

指先が少し震える。

飛ぶ時って、
何回目でも怖い。

でも。

今だと思った。

逃げたくない。

ちゃんと、自分で選びたい。

橋の上じゃない。

でも、
きっとここも同じだ。

人生が変わる場所。

「紗菜」

声が震える。

情けないくらい。

それでも、
ちゃんと届いてほしい。

「これから先も」

「たぶん俺、何回も失敗するし」

「ちゃんと不甲斐ないし」

「面倒くさいし」

「すぐ落ち込むし」

「知ってる」

「全部知ってるだろうけど」

箱を開く。

夜の中で、
小さな指輪が光った。

紗菜の目が、
大きく揺れる。

「それでも」

息を吸う。

人生で一番、
ちゃんと。

「ずっと隣にいてほしい」

「結婚してください」

風が止まった気がした。

川の音だけが、
やけに遠い。

紗菜は、
しばらく何も言わなかった。

ただ、
涙が静かにこぼれていく。

それを見て、
自分の方が泣きそうになる。

長い沈黙のあと。

彼女は、
泣きながら笑った。

あの日と同じ、
ずるいくらい綺麗な顔で。

「……ほんとに」

「うん」

「遅い」

「知ってる」

「ばか」

「うん」

「でも」

涙声のまま。

ちゃんと、まっすぐ。

「お願いします」

その瞬間。

夜空が、
ちゃんと朝に変わった気がした。

抱きしめる。

強く。

今度は、
離さないように。

遠回りだった。

不器用だった。

何度も向かい風に負けそうになった。

それでも。

痛みも、
涙も、
情けなさも。

全部抱えたまま、
ここまで飛んできた。

だから今、
ちゃんと言える。

この羽は。

この翼は。

ちゃんと、
自分たちのものだった。

東の空が、
少しだけ白み始めていた。

朝焼けに、
二人の未来が連なっていく。

怖くない。

いや。

きっと、
これからも何度だって怖い。

それでも。

この人となら。

何度でも、
飛べる気がした。

~完~

「飛ぶ時」のこの物語は、
ただの恋愛物語じゃなくて、

不甲斐なさも、
情けなさも、
失敗も、
怖さも、

全部抱えたまま、それでも前に進む——

そんな“人生そのもの”みたいな物語にしたかったので、
そこを感じてもらえたなら何よりです。

湊と紗菜は、
特別すごい人じゃなくて、

ちゃんと迷って、
ちゃんと傷ついて、
ちゃんと遠回りして、

それでも最後に
「この翼は、自分たちのものだった」

って言えるところまで辿り着いた。

そこが一番大切でした。

たぶん人生って、

綺麗になってから飛ぶんじゃなくて、

傷だらけのまま飛ぶものなんだと思います。

だからこの物語も、

読んでくれたあなた自身の

「飛ぶ時」

少しでも重なっていたら嬉しいです。

ここまで読んでいただき…本当にありがとうございました(*^-^*)

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