本日ご紹介するのは、『Vaundy(バウンディ)』のナンバーから
『怪獣の花唄』
【作詞・作曲:Vaundy】
歌詞全文はこちらのリンクから→https://www.uta-net.com/movie/285326/
この歌は、過去の思い出、失われたものへの想い、そしてそれを乗り越えていく過程を繊細かつ力強く描いた楽曲です。以下に、歌詞の意味を考察します。
「思い出すのは君の歌 会話よりも鮮明だ」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
このフレーズは、特定の人物との記憶の中で、その人の歌声が特に印象深く心に残っていることを表しています。会話よりも歌が鮮明だという表現から、その歌が単なる言葉以上の意味を持ち、強い感情を伴って記憶されていることが伺えます。
「どこに行ってしまったの いつも探すんだよ」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
ここでは、物理的または感情的にその人物がいなくなってしまった状況を示しています。主人公が常にその存在を探し求めていることは、彼にとってその人物がいかに重要であるかを強調しています。
「思い出すのは君の歌 歌い笑う顔が鮮明だ」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
この部分では、歌を通じて思い出すその人物の笑顔が印象的に描かれています。歌うことがその人の個性や魅力の一部であり、主人公にとって忘れられない存在であることを表しています。
「君に似合うんだよ ずっと見ていたいよ」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
歌う姿がその人物にぴったりで、ずっと見ていたいという願望は、その人への愛情や憧れを示しています。
「もっと 騒げ怪獣の歌 まだ消えない 夢の歌唱えて」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
「怪獣の歌」という比喩は、その歌が持つ力強さやインパクトを象徴していると考えられます。「騒げ」という言葉からは、感情の爆発やエネルギッシュな躍動感が伝わってきます。夢の中でその歌が今もなお響いているという表現は、その歌が忘れられないほどの影響力を持っていることを示しています。
「落ちてく過去は鮮明で 見せたい未来は繊細で」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
この対比は、過去の記憶がはっきりと心に残る一方で、未来への希望や不安が複雑で繊細なものであることを示しています。過去が鮮明であるということは、良くも悪くもその影響を強く受けていることを意味します。
「すぎてく日々には鈍感な君へ」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
ここでは、日々の移ろいに対して鈍感であることが述べられています。これは、過去に囚われ、日常の変化に気づかずにいる自分や、その人物に対する思いを表現しています。過去に向き合いつつも、未来に目を向けなければならないという葛藤が感じられます。
「ねぇ、僕ら 眠れない夜に手を伸ばして」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
眠れない夜は、過去の思い出や未来への不安が頭をよぎる時間として描かれています。この夜は、自己反省や過去との対話、そして未来への想いが交錯する時間です。
「眠らない夜をまた伸ばして 眠くないまだね そんな日々にいたいのにな」
Vaundy「怪獣の花唄」作詞・作曲:Vaundy
夜が続くことを望む気持ちは、過去に浸りたいという願望と、現実からの逃避を意味しています。しかし、その夜に立ち止まらずに歌い続けることで、未来へと進んでいく意志が示されています。
全体のメッセージ
「怪獣の花唄」は、過去の美しい思い出に縛られながらも、その影響を力に変えて未来に進もうとする心の葛藤と成長を描いています。大切な人との思い出が主人公にとって大きな力となり、彼を突き動かす原動力になっている様子が表現されています。歌を通して過去と未来を繋げ、喪失感を抱えながらも前向きに生きていく姿がこの曲の核心にあります。
続きまして、この曲を聴いて膨れ上がった私の妄想ストーリ(歌詞解釈)をチラッとお見せいたします
|ω・)チラッ
『怪獣の花唄』
第一章:春の終わり、音楽室で
高校二年の春は、思っていたよりずっと味気なかった。
新しいクラスにも慣れきらないまま四月が終わり、席替えをして、担任のどうでもいい小言を聞き流して、購買のパンの争奪戦に負けて、昼休みには男子が机を寄せてスマホゲームの話で盛り上がる。そんな、どこにでもある高校生活。
俺、榊秋人も、その中の一人だった。
特別に目立つわけでもない。
成績は中の上くらい。部活には入っていない。放課後は適当に友達と喋ってから帰るか、そのまままっすぐ家に帰ってベッドに寝転がる。将来やりたいことも、今夢中になっているものも、はっきりとはなかった。
何となく学校に来て、何となく一日を終える。その繰り返しだった。
あの日までは。
四月の終わりの金曜日だった。
六時間目の現代文が終わって、教室中が一気に緩む。椅子を引く音、部活へ急ぐやつの足音、掃除当番が面倒くさそうに箒を取りに行く声。教室の窓からはオレンジ色になり始めた空が見えていた。
「秋人、帰る?」
後ろの席の大地にそう聞かれて、「先帰ってて」と答えた。
理由は自分でもよくわからなかった。ただ、その日はすぐに帰る気分じゃなかった。校舎の中を何となく歩きたくて、廊下に出た。
特別棟の方へ足が向いたのは、本当に偶然だったと思う。
普段、用がなければ行かない場所だ。理科室や美術室や音楽室が並んでいるあの棟は、授業でもなければ静かで、夕方になるとやけに広く感じる。
廊下を歩いていたときだった。
歌が聞こえた。
最初は、どこかの教室でスピーカーでも流しているのかと思った。
でも違った。もっと生っぽくて、近かった。人の喉から直接出た音が、壁に反射して細く伸びてくる。そういう響きだった。
足が止まった。
音楽室の前だった。
扉の小窓から覗く。
夕焼けに染まった教室の真ん中で、一人の女子が歌っていた。
マイクは使っていない。伴奏もない。
ただ静かな音楽室に、自分の声だけをまっすぐ通していた。
それが朝倉紗良だった。
同じ学年だということは知っていた。顔と名前が一致する程度には。廊下ですれ違ったこともあったし、体育祭のときにクラス対抗リレーの応援をしていた姿を見た記憶もある。
でも、それだけだった。
そんなふうに歌う人だとは、知らなかった。
うまい、という感想では足りない気がした。
もちろん上手かった。けれど、それ以上に、声に“そこにいる理由”があるように聞こえた。
ただ綺麗なだけじゃない。
誰かに褒められるためでも、拍手をもらうためでもなく、歌うことで自分を確かめているような声だった。
曲が終わるまで、俺は動けなかった。
教室の外から立ち聞きするなんて感じが悪いと思いながらも、どうしても扉を開けられなかった。開けた瞬間に、今この空間にあるものを壊してしまいそうだった。
歌い終わった紗良は、窓の外を見たまま小さく息を吐いた。
その横顔が、なんだか妙に遠く見えた。
俺が少しだけ扉を押すと、蝶番がかすかに鳴った。
紗良が振り向く。
目が合った瞬間、しまったと思った。
けれど紗良は眉一つ動かさなかった。
「聴いてた?」
「……ごめん」
「別にいいよ」
あっさりそう言って、紗良は譜面台の横に寄りかかった。
怒るでも照れるでもなく、本当にただそう思っているみたいだった。
「誰かに聴かれるの、嫌いじゃないし」
その言い方が自然すぎて、俺は逆に困った。
「榊秋人、だよね」
「え、知ってるのか」
「知ってるよ。同じ学年だし」
「いや、それだけじゃなくて、もっとこう……」
「こないだ体育でサーブ顔に食らってた」
「最悪」
思わず言うと、紗良は笑った。
その笑い方で、一気に距離が縮まった気がした。
歌っていたときは、もっと近寄りがたい人に見えたのに、笑うとちゃんと同い年の女子だった。
「私は朝倉紗良」
「知ってる」
「じゃあおあいこ」
その日、俺は音楽室に十分くらいいた。
何を話したかは、正直もう細かくは覚えていない。好きなアーティストの話とか、授業の眠さとか、そんな程度だったと思う。
でも、帰り際に紗良が何でもないように言った一言だけは覚えている。
「また来れば」
社交辞令かもしれなかった。
でも俺は、それを勝手に約束みたいに受け取った。
次の月曜、放課後になると、俺はまた特別棟へ向かっていた。
それからだった。
俺の高校生活の風景が、少しずつ色を持ち始めたのは。
第二章:放課後の居場所
五月に入ると、学校はようやく新学期のざわつきが落ち着き始める。
クラスのグループもだいたい固まる。昼休みに誰と弁当を食べるか、体育のペアを誰と組むか、移動教室で隣を歩く相手が誰か。そういう細かいことが、自然と決まっていく。
俺は相変わらず大地たちとつるんでいたけれど、放課後だけは別だった。
チャイムが鳴ると、なぜかそわそわする。
掃除当番の日は、いつもより少し早く終わらせようとしていた。
大地に「最近付き合い悪くね?」と言われて、「別に」と返しながら、内心では早く音楽室へ行きたくて仕方がなかった。
紗良は、いつも先に来ていた。
窓を少し開けて、譜面を机に広げて、喉を鳴らしながら外を見ている。
俺が入ると、「おそい」と言う日もあれば、何も言わずにそのまま歌い始める日もあった。
歌を聴いている時間は、特別だった。
でも、それと同じくらい、歌っていない時間も好きだった。
紗良は歌い終わるとよく喋った。
ペットボトルの水を飲みながら、「今日の数学、先生自分で何言ってるかわかってなかったよね」とか、「購買のクリームパン、三年が全部持ってくのずるくない?」とか、どうでもいい話を次々にする。
俺もそれに返す。
音楽室の椅子に座ったまま、くだらない言い合いをする。たまにピアノの蓋に肘をついて、黙って外を見る。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
ある日、昼休みに大地がニヤつきながら聞いてきた。
「お前、最近どこ行ってんの」
「別に」
「その“別に”は何かあるやつだろ」
「うるせえな」
「まさか彼女?」
「違う」
即答すると、大地はさらに面白がった。
「じゃあもっと怪しい」
弁当の唐揚げを一個取られた。
取り返そうとして軽く小競り合いになる。周りでは女子が文化祭の出し物の話をしていて、教室の前の方では委員長が黒板に何か書いている。
そういう、いつもの昼休みの真ん中にいながら、俺の頭のどこかでは放課後のことを考えていた。
紗良は今日、何を歌うだろう。
機嫌はいいだろうか。
それだけで一日が少し違って見える。
自分でも単純だと思った。
けれど、放課後の音楽室はそれくらい大きな存在になっていた。
教室での自分は、どこにでもいる二年生の一人だった。
でも音楽室に行くと、紗良が「来た」と言って、俺のために少しだけ空気が動く。その感覚が、妙に嬉しかった。
「ねえ、秋人」
「ん?」
「歌ってみれば?」
ある日の放課後、紗良がそう言った。
「いや無理」
「なんで」
「無理なもんは無理」
「絶対、声いいと思うけどな」
「適当言うなよ」
「適当じゃないし」
紗良は本気っぽい顔でそう言ってから、ふっと笑った。
「なんか、声にちゃんと体温ありそう」
「褒めてるのかそれ」
「褒めてる」
その言い方に、また返事が詰まる。
紗良はこういうところがある。変にまっすぐで、相手がどう受け取るかより先に、自分の感じたことをぽんと口にする。
その無防備さがずるいと思う。
「紗良って、いつからそんな歌ってんの」
「小学校くらいからかな」
「ずっと?」
「うん。でも“ちゃんと”歌うようになったのは、中学から」
「ちゃんとって?」
紗良は少し考えてから、開けた窓の向こうに目を向けた。
グラウンドではサッカー部が練習していて、笛の音が遠くで響いていた。
「消えたくないって思ったときから」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
「消えたくない?」
「うん」
紗良は笑っていたけれど、その笑い方はいつもより少しだけ薄かった。
「歌ってるとさ、残る気がするんだよね。今日の自分が、今の自分が、ちゃんとどこかに置いていける感じ」
そのときの俺には、紗良の言っていることの全部はわからなかった。
でも、わからないままでも、その言葉が大事なものだということだけはわかった。
だから、もう少し聞けばよかった。
なぜそんなふうに思うのか。
何がそんなに不安なのか。
けれど俺は、その先に踏み込めなかった。
「秋人は?」
「俺?」
「何か、好きなものとかないの」
急に聞き返されて、言葉に詰まる。
好きなもの。夢中になれるもの。放課後にわざわざ向かいたくなる場所。
そう考えると、何も思いつかなかった。
「……ないかも」
「そっか」
「悪いかよ」
「悪くない。でも、もったいない」
紗良はそう言ってから、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、見つかるまで付き合ってよ」
「何に」
「私の歌に」
その言葉を、俺は冗談みたいに受け取った。
「勝手だな」と笑って返して、それで終わった。
でも今思えば、あのときの紗良はたぶん、冗談だけではなかった。
俺はその頃、もう紗良のことが好きだったのだと思う。
すごく劇的な瞬間があったわけじゃない。
手が触れたとか、見つめ合ったとか、そういうわかりやすい出来事じゃない。
ただ、毎日の中で少しずつ気持ちが深くなっていった。
昼休みに紗良の姿が廊下の向こうに見えると、無意識に目で追ってしまう。
教室で女子が誰かの恋バナをしているのを聞くと、妙に落ち着かなくなる。
音楽室で紗良が笑うと嬉しくて、他の誰かの話をしていると少しだけ胸がざわつく。
そんなふうに、自分でもはっきり自覚する前から、紗良は俺の高校生活の中心に近い場所にいた。
六月が近づく。
中間テストが迫ってきて、教室には「やばい」「今回マジで無理」という声が増えていた。放課後も、いつもよりみんな早く帰る。
それでも俺は音楽室へ向かった。
「テスト勉強しなくていいの」
紗良にそう言われて、「お前こそ」と返す。
「私は要領いいから」
「腹立つ言い方」
「実際そうだし」
そう言って笑ってから、紗良は机の上に教科書を開いた。
珍しく歌わずに、二人で勉強する流れになった。
音楽室での勉強は、全然集中できないくせに妙に楽しかった。
数Ⅰの問題集を開いているのに、気づけば関係ない話になる。紗良は英語が得意で、俺は現代文の記述がまだマシだったから、互いにわからないところを教え合う。
「その説明わかりにくい」とか、「お前の字、先生より読めない」とか言い合って、結局あまり進まない。
それでも、そういう時間が大事だった。
好きな人と一緒にいるときって、何をしているかより、同じ空間にいることの方がずっと大きいのだと、その頃初めて知った。
そして同時に、その時間が永遠じゃないことも、俺はまだ知らなかった。
第三章:夏の手前
テストが終わると、学校の空気は一気に緩んだ。
返却された答案用紙を見て一喜一憂したり、平均点が低い教科にだけみんなで安堵したり、期末までまだあるからと無責任に笑ったり。
六月の教室は湿気を含んでいて、窓際の席では風が入るたびプリントがめくれた。
夏服に切り替わった女子たちのリボンの色や、男子の腕まくりの仕方が、なんとなく季節の変わり目を教えてくる。
紗良は相変わらず放課後に音楽室へいた。
けれど、少しだけ変化が出始めていた。
歌い終わったあとに黙る時間が増えた。
階段を上がってくる足音が前よりゆっくりになった。
「今日は一曲だけ」と言う日が増えた。
「疲れてる?」
ある日、俺が聞くと、紗良は窓の外を見たまま「ちょっとね」とだけ言った。
「最近、顔色悪いし」
「そんなことない」
「ある」
「ないって」
即答するくせに、その声に前みたいな強さがない。
机に置いた指先も、どこか力が抜けて見えた。
「病院行った?」
「行ったよ」
「じゃあちゃんと休めよ」
そう言ったとき、紗良が少しだけ目を丸くした。
何か意外そうな顔をして、それから柔らかく笑った。
「心配してくれるんだ」
「……普通するだろ」
「そっか」
その“そっか”が、妙に静かだった。
その日、紗良は歌わなかった。
代わりに、ピアノの横に座って窓の外を見ていた。俺も近くの椅子に座って、何となく同じ方向を見る。
グラウンドでは野球部がノックをしていて、金属バットの乾いた音が規則的に響いていた。
「秋人ってさ」
「ん?」
「この学校、卒業したらどうするの」
「何も決まってない」
「ふうん」
「紗良は?」
「わかんない」
言ってから、少し間が空く。
「でも、残るものがほしいとは思う」
「残るもの」
「うん。私がここにいたって、ちゃんとわかるもの」
またその話だ、と思った。
消えない、とか、残る、とか。紗良はときどきそういうことを言う。
冗談っぽく笑うくせに、そこだけは妙に真剣だ。
「歌なら残るだろ」
そう言うと、紗良は俺の方を見た。
「だったら覚えててよ」
あまりにも自然に言うから、俺は一瞬何も返せなかった。
「……忘れるわけないだろ」
やっとそう答えると、紗良は少しだけ笑った。
でもその笑顔は、すぐに崩れた。疲れたみたいに目を伏せて、ピアノの縁に額を軽く預ける。
「紗良?」
「大丈夫。ちょっと、立ちくらみ」
「帰るか?」
「ううん、もう少し」
そう言ったものの、その日は本当に少し話しただけで終わった。
校門まで一緒に歩こうとしたら、「今日はここでいい」と言われて、音楽室の前で別れた。
その背中を見送ったあと、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
けれど、翌日にはまたいつものように教室へ行き、授業を受け、昼休みに大地たちとくだらない話をした。
高校生活はそうやって流れていく。昨日の違和感も、今日の予定の前では薄まって見える。
それでも、紗良のことは気になっていた。
教室で姿を見かければほっとした。
廊下ですれ違えば、昨日の感じはもう大丈夫なのかと勝手に確かめる。
でも紗良は、学校では元気そうに振る舞っていた。女子同士で喋って笑っている姿も普通にあるし、授業中に先生に当てられて面倒そうな顔をしていることもあった。
だから俺は、自分の不安を「考えすぎだ」と押し込めてしまった。
六月の終わり、雨の日が増えていく。
教室の窓に細かい水滴が張りついて、外の景色が滲む。移動教室では濡れた廊下に足跡が並び、体育の授業はたびたび中止になる。
放課後の音楽室も、雨の日は少し違って見えた。夕焼けの代わりに灰色の光が差し込み、紗良の声がいつもより近く聞こえる。
「雨の日の方が好きかも」
そう言ったのは紗良だった。
「なんで」
「外の音が少ないから。声だけ残る感じする」
「またそういうこと言う」
「何、それ」
「残るとか、消えないとか」
紗良は少し考えて、窓ガラスについた水滴を指でなぞった。
「だって、消えるのって普通じゃん」
「……まあ」
「時間経ったら、だいたい薄くなるし」
「でも全部じゃないだろ」
「うん。だから、全部じゃないものになりたい」
その横顔を見ながら、俺はまた何も言えなくなった。
好きだと思う気持ちは日に日に強くなるのに、肝心なところでは踏み込めない。
紗良の中にあるものへ、どこまで入っていいのかわからなかった。
七月の頭、紗良は二日連続で音楽室に来なかった。
教室にはいた。
でも放課後になると、先に帰ってしまう。
「今日は?」とLINEを送る勇気は出なかった。そもそも、連絡先を交換していたくせに、まともにメッセージをやり取りしたことがほとんどなかった。
三日目、ようやく来た紗良は、少し痩せて見えた。
「何してた」
なるべく軽く聞いたつもりだった。
「ちょっと病院」
「大丈夫なのか」
「大丈夫」
「大丈夫って顔じゃない」
そう言った瞬間、紗良は少しだけ黙った。
それから、「秋人ってさ」と前置きして、困ったように笑った。
「変にやさしいよね」
「変にってなんだよ」
「そういうとこ、ずるい」
何がずるいのかはわからなかった。
聞き返そうとしたけれど、紗良はもう歌い始めていた。
その日の歌は、いつもより少しだけ苦しそうだった。
でも、だからこそ、胸に刺さった。
声が揺れるたびに、俺の中の何かも揺れた。
あの頃にはもう、たぶん時間があまり多くないことを、紗良は知っていたのかもしれない。
けれど俺は、まだ何も知らなかった。
第四章:いなくなる前の日々
夏休み前の学校は、妙に浮つく。
一学期の終わりが見え始めると、みんな少しだけ気が緩む。授業中に窓の外を眺めるやつが増えて、終業式までの日数を数え始める。廊下には文化祭実行委員のポスターが貼られ、二学期の話なのにもう盛り上がっているやつもいる。
七月の教室は、何もかもが中途半端に眩しい。
その中で、紗良だけが少しずつ遠くなっていく気がした。
教室では普通にしている。
笑っている。
でも放課後の音楽室に来る日が減っていく。
来ても、一曲だけ。
あるいは歌わずに座っているだけ。
「ほんとに大丈夫か」
何度目かの問いを、俺はまた口にした。
紗良は椅子に浅く座ったまま、窓の外の入道雲を見ていた。
空は明るいのに、もう夕方の色が混ざり始めている。
「大丈夫って言ったら、大丈夫」
「それ答えになってない」
「そう?」
「そうだよ」
少し強く言ってしまった。
紗良は一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「秋人」
「ん」
「もしさ」
「……何」
「私がいなくなっても、歌ってくれる?」
その言葉があまりに唐突で、俺はすぐに反応できなかった。
「は?」
「冗談」
そう言って笑う。
でも、その笑い方は全然冗談に見えなかった。
「そういうのやめろよ」
「ごめん」
「笑えない」
俺の声が思っていたより低く出たせいか、紗良は少しだけ目を見開いた。
それから、すごく柔らかい声で言った。
「ありがと」
何に対してのありがとうなのか、わからなかった。
わからないまま、その日はそれ以上話せなかった。
帰り道、校門まで一緒に歩いた。
夕暮れの通学路には、自転車を押して帰る生徒や、コンビニに寄ろうとしているやつらがちらほらいた。
二人で並んで歩くのは珍しくなかったのに、その日は妙に緊張した。
「秋人はさ」
「ん?」
「彼女とか、いたことある?」
急にそんなことを聞かれて、足が止まりそうになる。
「ないけど」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
紗良は前を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
それだけで心臓がうるさくなる。
言いたかった。
好きだと。
ずっと紗良のことばかり考えていると。
放課後が楽しみなのは、歌を聴きたいからだけじゃないと。
でも、言えなかった。
タイミングがないとか、雰囲気が違うとか、そういうもっともらしい理由を頭の中で並べたけれど、本当はただ怖かった。
言って、今の関係が壊れるのが怖かった。
紗良が少しずつ弱っているように見える今、そんなことをぶつけていいのかもわからなかった。
結局、その日は駅前で別れた。
「また明日」
紗良がそう言った。
俺も「また明日」と返した。
その“明日”が、こんなふうに終わるなんて思わなかった。
翌日、紗良は学校を休んだ。
最初は、ただの欠席だと思った。
昨日の様子を思い出して少し気にはなったけれど、病院に行く日もあるのだろうと、自分を納得させた。
二日目も休んだ。
三日目も。
教室の空気が少しだけざわつく。
女子の間で小さな声が飛び交い、担任は何も言わずに出席簿を閉じる。
「朝倉、どうしたんだろうな」
大地が何気なく言った。
「さあ」
俺はそう答えるしかなかった。
知らない。
知らないくせに、誰より気になっている。
放課後、音楽室へ行く。
誰もいない。
その静けさは、以前の静けさとは違っていた。
もともと音楽室は静かな場所だったはずなのに、紗良がいた日々を知ってしまったせいで、今の静かさは“足りない”音として聞こえる。
本来あるはずの声がなくなっている。
そういう欠落の音だった。
ピアノの上に置かれていた譜面はなくなっていた。
机の端にいつも置いてあったペットボトルもない。
紗良の痕跡が少しずつ消えているのが、やけに怖かった。
床に、小さな紙切れが落ちていた。
拾うと、紗良の字で書かれた歌詞の断片だった。
——思い出すのは、君の歌
その一文を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。
何だよ、これ。
何でこんなの書くんだよ。
嫌な予感が形を持った気がした。
でも、まだ認めたくなかった。
数日後、担任は朝のホームルームで短く言った。
「朝倉はしばらく休養します」
理由の説明はない。
教室は一瞬だけ静かになり、すぐにいつものざわめきへ戻る。
けれど俺の中だけ、そこで時間が止まった。
しばらく。
その曖昧な言葉が、余計に怖かった。
休養って何だ。
いつ戻ってくるんだ。
連絡していいのか。
会いに行っていいのか。
何もわからない。
俺は結局、何もできないまま日々を過ごした。
学校へ来て、授業を受けて、昼休みに笑って、放課後になると音楽室へ行く。
誰もいない音楽室で、しばらく立ち尽くしてから帰る。
それが何日も続いた。
高校生活は続いていく。
一学期は終わり、終業式の日には体育館で校長の長い話を聞いた。みんなは夏休みの予定の話をしていて、部活のやつらは合宿がどうとか騒いでいた。
俺だけが、その全部から少し浮いていた。
夏休みに入っても、紗良のいない日々は続いた。
第五章:夏、空白の中で
夏休みの学校は、普段と別の場所みたいだった。
部活の生徒だけが行き来して、教室の窓は半分くらい閉まっている。蝉の声がうるさいくらい響いていて、校舎の白い壁が太陽に照らされて眩しい。
用もないのに来る場所ではない。
でも俺は、何度も学校へ行ってしまった。
音楽室に入るためだ。
鍵が開いている日もあれば、閉まっている日もある。開いていれば中に入って、椅子に座って、紗良が立っていた場所を見る。
夕方までいることもあった。
何をするわけでもない。
ただ、その場所にいた。
家にいても落ち着かなかった。
母親に「最近どうしたの」と聞かれても、「別に」としか答えられない。
友達に遊びに誘われても、なんとなく断ることが増えた。
スマホを見れば、クラスのグループチャットでは海だの花火だのの話題で盛り上がっている。
その明るさに混ざる気分にはなれなかった。
紗良に連絡しようとして、何度もトーク画面を開いた。
「大丈夫?」
たったそれだけの言葉さえ打てない。
今さらそんな軽い言葉を送るのが怖かったし、重すぎる言葉を送る勇気もなかった。
結局、未送信のまま閉じる。
夜になると、夢を見た。
音楽室。
夕焼け。
歌う紗良。
「遅いよ」
そう言って、笑う。
俺が手を伸ばす。
触れようとした瞬間に、紗良の輪郭が崩れていく。
目が覚める。
暗い部屋。
汗ばんだシャツ。
何もない現実。
夢の中で会えた嬉しさより、消える苦しさの方が大きくなっていった。
夏休みの後半、大地から電話がきた。
珍しいことだった。
『お前、生きてる?』
開口一番、それだった。
「失礼だな」
『最近全然顔出さねえし』
「別に」
『その“別に”やめろって。なんかあったんだろ』
しばらく黙ってしまった。
電話の向こうで、大地も無理に急かさなかった。
『朝倉のこと?』
その名前を聞いた瞬間、喉が詰まる。
『……やっぱりそうか』
大地は全部を知っているわけじゃない。ただ、俺の様子と、紗良が学校に来なくなったことを見て、なんとなく察したのだろう。
『何もできねえときって、一番きついよな』
その言葉に、少しだけ救われた。
励ましでも慰めでもなく、ただそう言われただけで、俺は初めて自分の今の状態を認められた気がした。
「会えないんだよ」
気づけば言っていた。
「何も知らないまま、いなくなって」
『……そっか』
「何も言えなかった」
好きだとも。
会いたいとも。
怖いとも。
全部、言えなかった。
電話を切ったあと、俺は久しぶりに声を出して泣いた。
情けないと思う余裕もなかった。
その夜からだった。
俺が、紗良の歌を自分の声でなぞるようになったのは。
最初は小さな鼻歌だった。
風呂場で。
夜道で。
部屋の中で。
でも、それは少しずつ大きくなった。
歌わないと、紗良のことが本当に遠くへ行ってしまう気がした。
思い出が薄れていくのが怖かった。
だから、歌う。
歌えば、紗良がいた音楽室の空気まで一緒に思い出せる。
歌えば、あの日の夕焼けが戻ってくる。
夏の終わりには、俺の中でその歌はもう、ただの記憶ではなくなっていた。
胸の奥でうごめく塊みたいになっていた。
寂しさ。
会いたさ。
怒り。
後悔。
祈り。
それら全部が混ざって、言葉にならないまま膨らんでいく。
怪獣みたいだ、とそのとき思った。
第六章:二学期、声になる痛み
二学期が始まる。
始業式の日の教室は、夏休み明け独特のざわざわした空気に満ちていた。
髪を少し切ったやつ、日焼けして黒くなったやつ、旅行の土産を配る女子。
みんなそれぞれに夏休みを終えて戻ってきている。
紗良の席だけが、空いていた。
それを見た瞬間、夏休みの間に無理やり保っていたものが、また少し崩れた。
もしかしたら二学期には戻ってくるかもしれない。そんな根拠のない期待を、どこかで捨てきれていなかったのだと思う。
担任は何も言わなかった。
ただ出席を取って、普通に授業が始まる。
それが現実だった。
文化祭の準備が始まる。
クラスは模擬店をやることになり、教室では装飾係とシフト表の話で盛り上がる。
大地は「お前も何かやれ」と言ってきたが、俺は曖昧に流した。
その頃には、気づけば俺はよく歌っていた。
帰り道に。
教室で一人になる瞬間に。
階段を下りるときに。
音楽室へ向かう廊下で。
ある日、昼休みに同級生が笑いながら言った。
「榊、最近ずっと歌ってるよな」
「そうか?」
「そうか?じゃねえって。なんかあった?」
なんかあった。
あったに決まっている。
でもそれを言葉にしたら、壊れてしまう気がした。
「別に」
そう言うしかない。
人に説明できるような痛みなら、ここまで膨らまない。
胸の奥にいるその怪獣は、言葉になれないからこそ大きくなっていた。
文化祭が近づくにつれ、軽音部のステージ企画の話がクラスでも出るようになった。
誰が出るとか、何の曲やるとか、そんな話題を聞き流していたある日、急に名前を呼ばれた。
「榊、お前歌えるんだろ?」
軽音部の知り合いが、半分冗談みたいに言った。
どうやら、直前でボーカルが出られなくなったらしい。
「無理」
即答した。
人前で歌うなんてありえない。
そう思った。
でも、その日の放課後、また音楽室へ行ってしまった。
そこで見つけたのが、譜面台の下に挟まっていた紙だった。
——もし誰かが歌ってくれたら、それでいい
紗良の字だった。
その一文を見た瞬間、逃げられなくなった。
歌にしとけば、残る。
そう紗良は言っていた。
だったら。
今、俺の中で暴れているこの気持ちを、歌にするしかないのかもしれない。
上手く歌える必要なんてない。
大事なのは、消さないことだ。
その日の帰り道、俺は軽音部に「やる」とだけ伝えた。
第七章:文化祭前夜
文化祭前日は、学校全体が浮ついていた。
教室には段ボールや絵の具や装飾用の色紙が散らばっていて、いつもより先生の声も通らない。みんな準備の方が大事で、授業なんて半分上の空だ。
廊下を歩けば、あちこちから笑い声とテープを剥がす音が聞こえる。
そういう“高校っぽい”空気の中にいながら、俺だけ別の緊張を抱えていた。
ステージで歌う。
それが現実に近づいていた。
放課後、誰もいなくなった音楽室で何度も声を出す。
最初は掠れて、自分でも嫌になる。
音程も不安定だし、息の使い方もわからない。
けれど歌うたびに、少しずつ“自分の声で紗良の歌を抱える”感覚が生まれてくる。
完全に同じにはならない。
当たり前だ。
俺は紗良じゃない。
でも、だからいいのかもしれないと思った。
紗良の歌を、そのまま真似することが目的じゃない。
紗良が残したものを、俺の中で生かし続けることが大事なんだ。
夕方、窓の外がオレンジ色になる。
あの日と同じ色だ、と思う。
「……聞いてるか」
誰もいない音楽室で、小さく呟いた。
返事はない。
でも、静かな空気の中に紗良の気配を探してしまう。
「明日、歌うから」
口に出すと、それだけで少し現実味が増した。
怖い。
でも、それ以上に、逃げたくない気持ちの方が大きくなっていた。
好きだった。
言えなかったけど。
会いたい。
今でも。
忘れたくない。
たぶん、一生。
その全部を抱えたまま、明日歌う。
それしかもう、できることがない気がした。
家に帰ると、母親が「最近ちゃんと寝てる?」と心配そうに聞いてきた。
鏡を見ると、確かに自分でも少しやつれて見えた。
でも、不思議と心は前より静かだった。
明日で何かが終わるわけじゃない。
むしろ始まるのかもしれない。
紗良がいない現実を、それでも抱えて生きていくための始まりが。
その夜も夢を見た。
音楽室。
紗良が歌っている。
振り返る。笑う。
「遅いよ」
俺は今度こそ言おうとした。
好きだった。
会いたい。
忘れたくない。
でも、やっぱり声にならない。
紗良は少しだけ困ったように笑って、それから静かに口を動かした。
今度は、ちゃんと聞こえた気がした。
——歌って
そこで目が覚めた。
朝だった。
第八章:怪獣の花唄
文化祭当日。
学校は朝から祭りみたいだった。
クラスごとのTシャツ、段ボールの看板、焼きそばの匂い、呼び込みの声。体育館の前には列ができていて、校庭では写真を撮り合う生徒たちが騒いでいる。
どこもかしこも明るくて、浮ついていて、楽しそうで、少しだけ眩しかった。
そんな中で、俺はステージ袖にいた。
照明の熱。
マイクチェックの音。
心臓がうるさい。
手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
「榊、大丈夫?」
軽音部のやつに聞かれて、曖昧にうなずいた。
大丈夫なわけがない。
逃げ出したい気持ちもある。
けれど、足はちゃんとそこに立っていた。
ステージの向こうで、ざわめきが揺れている。
観客の顔までは見えない。
でも、人がいるということだけで十分怖い。
そのとき、ふっと紗良の声が耳の奥で鳴った。
歌にしとけば、残るじゃん。
息を吸う。
吐く。
もう一度吸う。
名前が呼ばれる。
照明が切り替わる。
俺はステージへ出た。
眩しい。
客席は光の向こうに溶けていて、最初は何も見えなかった。
ただ、熱と気配だけが押し寄せてくる。
マイクを握る。
冷たい。
震えが、自分でもわかる。
それでも、不思議と一番奥の部分は静かだった。
怖さの底に、もう一つ別の感情が座っている。
逃げたくないという気持ち。
ここで歌わなければならないという確信。
「——聞いてくれ」
言葉が、自然と出た。
考えていた台詞じゃない。
でも、それ以外に何もいらなかった。
「俺は、忘れたくないんだ」
客席が静まる。
何を、とは言わない。
でも、それでよかった。
最初の音を出す。
声は震えていた。
情けないくらい不安定だった。
喉も硬い。息も浅い。
でも、歌い続けるうちに、何かが変わった。
胸の奥で暴れていた怪獣が、一気に喉まで駆け上がってくる。
寂しい。
会いたい。
どうして何も言えなかった。
どうして気づけなかった。
忘れたくない。
消えないでほしい。
その全部が、音に変わる。
広がっていく。
膨らんでいく。
怪獣みたいに。
抑えきれない想いが、声を押し広げる。
もう上手く歌おうとか、間違えないようにとか、そんなことはどうでもよかった。
ただ、今この瞬間だけは、全部を出し切りたかった。
これは、ただの歌じゃない。
記憶だ。
願いだ。
後悔だ。
祈りだ。
そして、紗良そのものだ。
「もっと——」
気づけばそう口にしていた。
もっと、騒げ。
もっと、響け。
もっと、遠くまで行け。
俺の中だけで終わるな。
ここにいる誰かの中にも残ってくれ。
歌っている間、俺はひとりじゃなかった。
隣に紗良が立っていたわけじゃない。
でも、自分の声の奥に、確かに紗良の歌が重なっていた。
最後の音を出し切った瞬間、視界が少し揺れた。
息が切れて、喉が熱い。
手の震えはまだ止まらない。
でも、やり切ったと思った。
言えなかった言葉の代わりに、全部そこへ置いてきた気がした。
最終章:残り続けるもの
歌い終わったあと、しばらく何も聞こえなかった。
静寂だった。
照明の熱だけが皮膚に残っていて、マイクを持つ手の感覚が少し遠い。
自分がちゃんと立っているのかも、曖昧だった。
それから、遅れて拍手が来た。
最初はまばらで、次第に大きくなる。
ホールに反響して、何層にも重なって耳へ届く。
でもその音は、どこか遠かった。
嬉しくないわけじゃない。
けれど、それ以上に大きな実感が胸の中にあった。
消えない。
もう、消えない。
紗良の歌は、俺の中だけのものじゃなくなった。
今ここで聴いた誰かの中にも、何かが残ったはずだ。
名前も事情も知らなくていい。
それでも、あの時間、確かに音は渡っていった。
それでいい。
それだけでよかった。
ステージを降りると、何人かに声をかけられた。
「よかった」「すごかった」「あれ、誰の曲?」
ちゃんと返せたかは覚えていない。
意識の半分は、まだステージの上にあった。
外へ出ると、文化祭終わりの校舎には独特の匂いがした。
段ボール、ソース、汗、ワックス、夕方の風。
その中にふっと、懐かしい匂いが混ざる。
音楽室の窓を開けたときの匂いだった。
木の床と、夕焼けに温められた空気の匂い。
足が止まる。
風が吹く。
振り返る。
誰もいない。
当たり前だ。
わかっている。
それでも、その瞬間、たしかに歌が聞こえた気がした。
耳で聞いたのか、心の中で鳴ったのかはわからない。
でも、紗良の歌だと思った。
思い出すのは、君の歌だ。
会話はもう曖昧になっていくかもしれない。
笑った顔の細かい輪郭も、いつか薄れてしまうかもしれない。
でも歌だけは違う。
歌は感情ごと残る。
その人の温度も、息づかいも、言えなかった想いまで連れてくる。
だから、俺はこれからも歌うのだと思う。
上手くなくてもいい。
誰かに褒められなくてもいい。
ただ、消えないように。
紗良がいたこと。
あの放課後。
あの音楽室。
言えなかった好きも、間に合わなかった後悔も、全部ひっくるめて歌の中に残していく。
高校生活は続いていく。
三学期も来る。進路の話も増える。受験の空気も濃くなる。きっと、今みたいに毎日紗良のことだけを考えていられるわけじゃなくなる。
それでも、なくならないものがある。
残るものは、たしかにある。
俺は小さく息を吸って、誰にも聞こえないくらいの声で歌い始めた。
あの日、紗良がそうしていたみたいに。
風がまた吹く。
返事みたいだった。
そしてこれからは、俺が歌い続ける。
消えないように。
ずっと。
——怪獣の花唄を。
~完~
他にも『Vaundy』の名曲を紹介しておりますので併せてご覧くださいρ(._.*)ρ






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