『忘れる前に』Vaundy。”愛は記憶に残るものじゃなくて、痕跡として残るもの”

Vaundy

本日ご紹介するのは、『Vaundy(バウンディ)』のナンバーから

『忘れる前に』
【作詞・作曲:Vaundy】

歌詞全文はこちらのリンクから→https://www.uta-net.com/song/381193/

Vaundyの「忘れる前に」は、2025年9月30日に配信リリースされたシングル曲。東京メトロ「Find my Tokyo.」のCMソングとして起用され、有村架純さんが出演する「Brand new season」篇や「上野_何もかもがアート」篇などで使用されている。

とてもシンプルな言葉で書かれているのに、実はかなり深いテーマを持った曲です。

この曲の本質は一言でいうと

「消えていく記憶の中で、どこまで“愛”を残せるか」

■全体構造の解説

この曲は大きく3つの流れでできています

① 記憶に気づく(でも曖昧)

→「街の風景にうなだれて〜思い出した」

② 夢の中で記憶を探す

→「僕ら夢の中〜灯火探して」

③ 忘却に飲み込まれる

→「ツルリ、ゴクリ〜バクに食われた」


■① 冒頭:思い出しかけている状態

街の風景にうなだれて
街を背景に黄昏て
思い出した

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

ここはかなり重要で、

「日常の中で、ふと何かを思い出しかける瞬間」

を描いています。

でもこの時点では

  • 何を思い出したのか分からない
  • ただ“感覚だけ”残っている

つまり、

記憶の“中身”ではなく、“輪郭”だけが残っている状態

です。


■② 「見てるだけじゃ見つからない」の意味

見てるだけじゃ
探し物は全然見つからないよ

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

これはこの曲の核心のひとつ。

ただ思い出そうとするだけではダメ
ちゃんと“触れにいかないといけない”

つまり、

「記憶は受動では戻らない、能動的に向き合う必要がある」

というメッセージ。


■③ 「夢の中」の正体

僕ら夢の中
消えそうな灯火探して

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

ここでいう「夢」は単なる夢じゃなくて、

**“忘れる直前の記憶領域”**

みたいなもの。

  • 現実ではない
  • でも完全な嘘でもない

いわば

“消える直前の記憶の中に入り込んでいる状態”

です。


■④ 灯火=何か?

消えそうな灯火

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

これはかなり象徴的で、

消えかけている大切な記憶(=愛や関係)

を表しています。

ここがポイント

  • 強い記憶じゃなくて「消えそうなもの」
  • つまり“忘れかけている”からこそ価値がある

■⑤ 「これが夢なら試そうか」の意味

これはかなり切ない一節で、

現実ではできなかったことを
夢の中ならやり直せるかもしれない

という感情。

つまり、

「後悔のやり直し」

です。


■⑥ 「君の正体」と愛の本質

君は魅惑を超えた
某星のエイリアンズにも負けないよ

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

ここは少し抽象的だけど、

「君はもう“特別”を超えた存在」

という意味。

つまり

  • 比較できない
  • 理屈で説明できない

**“愛そのもの”になっている存在**


■⑦ クライマックス:「忘れる前に」

目を擦り書き留めて
忘れる前に

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

ここがこの曲の核心。

記憶は消える
でも“何か”は残したい

だから

「忘れる前に、何かを刻め」

という叫び。


■⑧ ラストの正体

ツルリ、ツルリ
ゴクリ、ゴクリ
バクに食われた

Vaundy「忘れる前に」作詞・作曲:Vaundy

ここで一気に意味が明確になる。

「バク」=夢を食べる存在(日本の妖怪)

つまり、

“記憶(夢)が完全に消える瞬間”

を描いている。

■一言でまとめると

この曲は

**「愛は記憶に残るものじゃなくて、痕跡として残るもの」**

という物語。

以上私なりの歌詞解釈でした♪

続きまして、この曲を聴いて膨れ上がった私の妄想ストーリ(歌詞解釈)をチラッとお見せいたします
|ω・)チラッ

忘れる前に

第一章:黄昏の街

夕焼けに染まった街は、どこか他人行儀だった。

いつも通っているはずの道。
見慣れているはずの信号、コンビニ、ガードレール。
それなのに今日は、すべてが少しだけ遠い。

まるで、薄いガラス越しに見ているみたいだった。

「……なんだこれ」

無意識に呟いた声は、自分のものなのにやけに軽かった。

足は動いている。
ちゃんと歩いているはずなのに、地面を踏んでいる感覚が薄い。

風が吹く。

生ぬるい、夕方特有の風。
アスファルトの熱と、どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。
それらが混ざり合って、妙に現実的なはずなのに——

その中に、ぽっかりと穴が空いている感覚があった。

「……何か、忘れてる」

そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。

はっきりとした“何か”じゃない。
名前も、出来事も、形すらない。

でも確かに、「大事なものを落とした」ような感覚だけが残っている。

財布を落としたときとも違う。
スマホを忘れたときとも違う。

もっと、どうしようもなくて、取り返しがつかないような。

——そんな種類の欠落。

足を止める。

交差点の真ん中、信号が変わる直前だった。

クラクションが遠くで鳴る。

「あ、すみません」

反射的に謝って、歩道に戻る。
身体はちゃんと現実に対応しているのに、意識だけが遅れているみたいだった。

信号が青に変わる。

人の流れに押されるように、また歩き出す。

けれど、頭の中ではずっと同じことが繰り返されていた。

——何を忘れた?

——誰を忘れた?

その“誰”という感覚に、自分で驚く。

「……人?」

思わず口に出す。

誰かを忘れている。

そんなはずはない。
もし本当にそんなことがあったら、もっとはっきり分かるはずだ。

でも、分からない。

分からないのに、確信だけがある。

それが気持ち悪くて、胸の奥をじわじわ締めつけてくる。

夕焼けが、少しずつ濃くなる。

ビルの窓に反射した光が、やけに眩しい。

その光の中で、ふと——

“思い出しかけた”。

笑い声。

横顔。

何かを言いかけて、やめた仕草。

でも次の瞬間には、全部消える。

まるで、水に浮かんだ文字みたいに。

「……くそ」

思わず舌打ちする。

こんな中途半端な状態が、一番嫌いだ。

思い出せないなら、最初から何も感じなければいいのに。

期待だけさせて、何も掴ませない。

そんなの、拷問みたいなものだ。

歩き続ける。

いつもの帰り道のはずなのに、どこか違う道を歩いている気がする。

いや、道は同じだ。
景色も変わっていない。

変わっているのは、自分の中だけだ。

そのときだった。

視界の端に、違和感が引っかかる。

人混みの中に、ひとつだけ“静かな場所”があった。

そこだけ、時間の流れが少し遅いような——

そんな錯覚。

思わず足を止める。

視線を向ける。

そこに、彼女はいた。

街の背景に溶け込むように立っているのに、
なぜかそこだけ、輪郭がはっきりしている。

風に揺れる髪。
夕焼けに染まる横顔。
遠くを見ているような、少しだけ寂しそうな目。

「……」

言葉が出ない。

知らないはずなのに。

初めて見るはずなのに。

心臓が、強く鳴る。

ドクン、と。

一拍、遅れて。

その音がやけに大きく感じられた。

彼女が、ゆっくりとこちらを向く。

視線が合う。

その瞬間——

胸の奥にあった“空白”が、一瞬だけ埋まった気がした。

「……あ」

声が漏れる。

でも、その先が続かない。

名前が出てこない。

関係も思い出せない。

それなのに、確信だけがある。

——この人を、俺は知っている。

彼女は、ほんの少しだけ目を細めた。

驚いたような、
でもどこか安心したような、そんな表情。

そして——

ほんのわずかに、笑った。

その笑顔を見た瞬間、

胸の奥で何かが“ほどけた”。

同時に、

何かが“崩れ始めた”。

夕焼けの色が、わずかに揺らぐ。

街の音が、少し遠くなる。

現実と夢の境界が、曖昧になっていく。

「……やっと、見つけた」

彼女が、そう言った気がした。

でも、その声は風に紛れて、最後まで聞き取れなかった。

第二章:夢の中の会話

気づいたとき、俺は歩いていた。

さっきまで立ち止まっていたはずの場所じゃない。
いつの間にか、街の奥へと進んでいる。

隣には、彼女がいた。

「……」

言葉が出ない。

何を話せばいいのか分からないわけじゃない。
むしろ、聞きたいことは山ほどある。

でも、そのどれもが“核心に触れすぎている”気がして、
口にした瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。

だから、黙ったまま歩く。

アスファルトを踏む音だけが、やけに大きく響く。

それなのに——

周りの音は、妙に静かだった。

車の音も、人の話し声も、風の音さえも、
どこか遠くで鳴っているみたいにぼやけている。

まるで、この空間だけが切り取られているみたいだった。

「ねぇ」

彼女が、先に口を開いた。

その声は、驚くほど自然に耳に入ってきた。

「探し物、してるでしょ」

「……」

一瞬、言葉を失う。

でも否定する理由もなくて、ただ小さく頷いた。

「……たぶん」

曖昧な返事。

それでも彼女は、納得したように小さく笑った。

「やっぱりね」

「なんで分かるんだよ」

少しだけ、強く言ってしまう。

自分でも分かるくらい、焦りが混じっていた。

彼女はそれを気にした様子もなく、前を向いたまま言う。

「顔に書いてある」

「……そんなわけ」

「あるよ」

即答だった。

「見てるだけの人の顔」

その言葉に、足が一瞬止まりかける。

見てるだけ。

——確かに、そうだった。

思い出そうとしているだけ。
何も触れていない。

何も確かめようとしていない。

ただ、“そこにあるはず”の記憶を、遠くから眺めているだけ。

「見てるだけじゃさ」

彼女は続ける。

「探し物は、見つからないよ」

風が吹く。

さっきと同じはずの風なのに、
少しだけ冷たく感じた。

「……じゃあ、どうすればいいんだよ」

思わず聞いていた。

答えを求めているというより、
“何かを変えたかった”。

この曖昧な状態を。

この、手応えのない時間を。

彼女は、少しだけ考えるように間を置いてから言う。

「手探り」

「……は?」

「手で触って、確かめるの」

振り向いて、俺の目を見る。

その視線は、逃げ場がないくらいまっすぐだった。

「夢でもいいからさ」

その言葉に、心臓がわずかに跳ねる。

「……夢って」

思わず繰り返す。

その瞬間だった。

違和感が、形を持った。

街灯の光が、ほんの少し遅れて揺れる。
信号の色が、切り替わるタイミングを一瞬だけ迷う。
遠くを歩く人影が、同じ動きを繰り返す。

「……なんだ、これ」

立ち止まる。

今度は、はっきりと分かった。

おかしい。

この世界は、どこか“ズレている”。

彼女は、その様子を見ていた。

少しだけ、優しい顔で。

「気づいた?」

「……ここ、変だろ」

「うん」

あっさりと肯定される。

「たぶん、夢だよ」

その言葉は、驚くほど自然に受け入れられた。

否定する気にならない。

むしろ——

「ああ、そうかもな」

そう答えている自分がいた。

現実じゃないから、納得できる。

この違和感も、この空白も、この“彼女の存在”も。

「でもさ」

彼女が言う。

「夢かどうかって、そんなに大事?」

「……え?」

予想外の言葉に、思わず聞き返す。

「だって」

彼女は少し笑う。

「ここにいる“感覚”は、本物でしょ」

その言葉が、妙にリアルだった。

確かに、そうだ。

風の感触も、足音も、彼女の声も。
すべて、ちゃんと“感じている”。

夢なのに、現実みたいに。

「それに」

彼女は少しだけ前に出る。

距離が、ほんの少し近くなる。

「夢だからできることもあるよ」

その言葉に、胸の奥がざわつく。

「……例えば?」

聞いた瞬間、少しだけ後悔する。

答えを聞くのが怖かった。

でも彼女は、逃げなかった。

「触れること」

そう言って、ゆっくりと手を伸ばす。

一瞬、躊躇する。

でも——

俺も、手を伸ばしていた。

指先が触れる。

その瞬間、

ビリ、と世界が震えた。

街の輪郭が揺らぐ。
空の色がにじむ。
遠くの音が、一斉に歪む。

「……っ」

息が詰まる。

ただ触れただけなのに、
何か“深いところ”を揺らされた感覚。

頭の奥で、何かがほどける。

断片的な記憶が、ちらつく。

笑い声。
並んだ帰り道。
名前を呼ぶ声。

でも、まだ足りない。

「ほら」

彼女が小さく言う。

「見えてきたでしょ」

その声は、少しだけ震えていた。

まるで、自分にも言い聞かせているみたいに。

「……ああ」

ゆっくり頷く。

「少しだけ」

それだけでも、十分だった。

“ゼロ”じゃない。

ちゃんと、繋がり始めている。

「ねぇ」

彼女が言う。

「このまま、探そう」

その言葉は、どこか切実だった。

「時間、あんまりないから」

その一言で、

世界が、また少しだけ軋んだ。

遠くで、何かが崩れる音がする。

夢の終わりが、近づいている。

理由は分からないのに、
それだけははっきりと分かった。

「……分かった」

迷いはなかった。

もう、“見てるだけ”はやめる。

手探りでもいい。

曖昧でもいい。

それでも——

この夢の中で、

この人との“何か”を、

ちゃんと掴みたいと思った。

第三章:灯火

街の奥へ進むほど、世界は静かになっていった。

さっきまで確かにあったはずの生活音が、少しずつ消えていく。
信号の電子音も、遠くの車の走行音も、誰かの話し声も。

全部が、薄く引き延ばされて、やがて消える。

代わりに残ったのは——

自分たちの足音と、呼吸の音だけだった。

コツ、コツ、と。

アスファルトを踏むたびに、その音がやけに大きく響く。

「……なぁ」

思わず口を開く。

「さっきより、静かじゃないか」

彼女は少しだけ前を歩きながら、振り返らずに答えた。

「近づいてるから」

「……何に?」

一瞬の沈黙。

その“間”が、妙に重い。

「消えそうなものに」

その言葉は、やけにあっさりしていた。

でも、意味だけが深く沈む。

消えそうなもの。

——それは、記憶だ。

言われなくても分かる。

俺たちが探しているのは、きっとそれだ。

形もなく、触れれば崩れてしまうような、
そんな“灯火”。

歩き続ける。

道は、どこか現実離れしていた。

同じような路地が何度も続く。
曲がったはずの角に、また同じ景色が現れる。

「……ループしてるのか」

呟くと、彼女が小さく笑った。

「似てるだけだよ」

「いや、でも」

「それだけ、曖昧ってこと」

振り向く。

その表情は、どこか寂しそうだった。

「思い出って、ちゃんと覚えてるつもりでもさ」

一歩、こちらに近づく。

「形、変わるでしょ」

その言葉に、妙な納得があった。

確かにそうだ。

同じ出来事でも、思い出すたびに少しずつ違う。

都合よく塗り替えられて、
綺麗にされたり、逆に歪められたり。

「だから」

彼女は言う。

「ここも、安定しない」

その瞬間、視界がぐらりと揺れた。

建物の輪郭が、少しだけ歪む。
電柱が、あり得ない角度で傾く。
空の色が、一瞬だけ紫に変わる。

「……っ」

思わず足を止める。

気持ち悪い。

現実なら絶対にあり得ない歪み。

でも——

ここでは、それが“自然”だった。

「怖い?」

彼女が聞く。

振り返ると、少しだけ不安そうな目をしていた。

「……いや」

即答できなかった。

怖いかどうかで言えば、怖い。

でも、それ以上に——

「……戻りたくない」

そう思っていた。

自分でも驚く。

現実に戻ることのほうが、怖いと感じている。

なぜかは分からない。

でも、ここには“何か”がある。

失った何かの、欠片が。

「そっか」

彼女は小さく頷く。

その表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「じゃあ、もう少しだけ進もう」

その言葉に導かれるように、また歩き出す。

しばらく進んだ先で、

ふと、光が見えた。

暗い路地の奥。
周囲とは明らかに違う、かすかな光。

まるで、消えかけのランプみたいに。

「……あれ」

指をさす。

彼女も、それに気づいた。

「うん」

声が、少しだけ震えていた。

「たぶん、あれ」

ゆっくりと近づく。

一歩踏み出すごとに、心臓の音が大きくなる。

ドクン、ドクン、と。

まるで、何かに呼ばれているみたいに。

光の前まで来る。

それは、“景色”だった。

映像のように浮かび上がる、ひとつの記憶。

夕焼けの帰り道。
並んで歩く、二人の影。
何でもない会話。

笑い声。

「……これ」

思わず手を伸ばす。

触れた瞬間、

バチン、と弾けた。

「っ……!」

頭の中に、音が流れ込む。

言葉。
声。
名前。

——呼ばれている。

「……あ」

口が勝手に動く。

何かを言いかける。

でも、その瞬間、

光が大きく揺れた。

「待って!」

彼女の声が響く。

でも、止められなかった。

もっと、知りたい。

この先を。

この記憶の続きを。

「これが夢ならさ」

息を荒くしながら言う。

「試してみる価値、あるよな」

彼女の目が、揺れる。

驚きと、焦りと、少しの——

覚悟。

「……うん」

小さく、頷く。

その表情は、どこか決意しているようだった。

「じゃあ」

一歩、近づく。

距離が、一気に縮まる。

「一緒に、触ろう」

その言葉に、心臓が跳ねる。

逃げ場はなかった。

でも、逃げたいとも思わなかった。

ゆっくりと手を伸ばす。

彼女も、同じように手を伸ばす。

二人の手が、重なる。

そのまま——

光に触れる。

瞬間、

世界が崩れた。

空が裂ける。
音が爆ぜる。
光が、すべてを飲み込む。

その中で、

確かに聞こえた。

笑い声。

そして——

「——ねぇ」

彼女の声。

でも、それは今の彼女じゃない。

もっと近くて、もっと自然で、もっと——

“当たり前”だった頃の声。

「ちゃんと覚えててよ」

その言葉が、

胸の奥に、深く刺さる。

「忘れないで」

その一言と同時に、

光が、すべてを飲み込んだ。

第四章:君の正体

光が、ゆっくりと引いていく。

さっきまで視界を覆っていた眩しさが、少しずつ薄れて、
輪郭が戻ってくる。

でも——

世界は、もう元の形じゃなかった。

空はひび割れているみたいに歪んで、
建物は遠近感を失って、
街全体が“崩れかけた模型”みたいに見えた。

「……っ」

息を整える。

頭の奥が熱い。

さっき触れた記憶の断片が、まだ中で暴れている。

声。
笑顔。
並んだ帰り道。

そして——

“あの日”。

「……あれはっ」

思わず声が出る。

はっきりとした映像が、脳裏に浮かぶ。

夕焼けの帰り道じゃない。

もっと静かで、もっと冷たい場所。

言葉が、うまく交わせなかった日。

何かを言いかけて、やめた日。

そして——

「……いなくなった日」

その言葉を口にした瞬間、
世界が強く軋んだ。

ギシ、と。

音がした気がした。

「……やめて」

彼女の声が、すぐ近くで響く。

振り向く。

彼女は、少しだけ苦しそうな顔をしていた。

「……思い出すなってことか?」

問いかける声が、少しだけ荒くなる。

でも彼女は、首を横に振った。

「違う」

小さく、でもはっきりと。

「思い出して」

「……どっちだよ」

思わず苦笑が漏れる。

矛盾している。

思い出せば終わる。
でも、思い出さなければ意味がない。

そんなの、選べるわけがない。

「全部じゃなくていい」

彼女は言う。

一歩、こちらに近づく。

その動きが、どこか慎重だった。

「大事なとこだけ」

「……大事なとこ?」

「うん」

彼女は、まっすぐこちらを見る。

逃げ場のない視線。

「私と、ちゃんと向き合った記憶」

その言葉に、胸が強く鳴る。

ドクン、と。

「……君は」

ようやく、その言葉が出た。

ずっと喉に引っかかっていた問い。

「誰なんだ」

空気が、止まる。

風も、音も、全部が一瞬だけ消えた気がした。

彼女は、少しだけ目を伏せる。

その仕草が、やけにリアルで、やけに痛い。

「……やっと、そこまで来たね」

小さく呟く。

その声には、少しだけ安堵が混じっていた。

「でもね」

顔を上げる。

その目は、もう逃げていなかった。

「全部思い出したら、終わるよ」

その言葉は、やっぱり変わらない。

「……この夢が?」

「うん」

静かに頷く。

「たぶん、ここは」

周囲を見渡す。

崩れかけた街。
歪んだ空。
不安定な光。

「“忘れる前の場所”だから」

その言葉が、胸に刺さる。

忘れる前。

つまり——

「……消える前ってことか」

彼女は、少しだけ笑った。

でも、その笑顔は、どこか寂しかった。

「そういうこと」

沈黙が落ちる。

重い沈黙だった。

でも、逃げる気にはならなかった。

むしろ、ここで聞かなきゃいけないと思った。

「……なんで、いなくなったんだ」

その質問は、自然に出た。

責めるつもりはなかった。

ただ、知りたかった。

彼女は少しだけ驚いた顔をして、
それからゆっくりと息を吐いた。

「……ちゃんと、覚えてないでしょ」

「……ああ」

正直に答える。

断片しかない。

感情だけが残っていて、理由がない。

「だから」

彼女は言う。

「それも、これから思い出す」

一歩、さらに近づく。

距離が、ほとんどなくなる。

「でもね」

その声が、少しだけ震える。

「全部思い出したら」

「終わる、んだろ」

言葉を引き取る。

彼女は、静かに頷いた。

「……ああ」

ようやく、理解する。

これは選択だ。

思い出すか、
このまま曖昧に終わるか。

どちらにしても、残るものと、失うものがある。

「……ずるいな」

思わず言う。

「どっちにしても、なくなるじゃねぇか」

彼女は、少しだけ困ったように笑った。

「うん」

否定しない。

「でもね」

そっと手を伸ばしてくる。

今度は、迷いなく。

「“なかったこと”にはならないよ」

その言葉と同時に、指先が触れる。

さっきよりも、はっきりとした温度。

「ちゃんと覚えたものは」

彼女は言う。

「ちゃんと残るから」

「……どこに」

「君の中に」

その一言で、胸が締めつけられる。

「だから」

彼女は、ほんの少しだけ微笑む。

「今だけでいいから」

その目は、強かった。

揺れていない。

覚悟を決めた人の目だった。

「持って」

「……何を」

分かっているのに、聞いてしまう。

彼女は、少しだけ息を吸ってから言った。

「愛する勇気」

その言葉は、やけに重かった。

軽く受け取れるものじゃない。

でも——

「……」

目を逸らさない。

逃げない。

ここまで来て、逃げる理由なんてなかった。

ゆっくりと頷く。

「……分かった」

その瞬間、

世界が大きく軋んだ。

空が割れる。

光が崩れる。

時間が、限界に近づいている。

「急がないと」

彼女が言う。

「もう、あんまり持たない」

その声は、少しだけ焦っていた。

でも同時に、どこか安心しているようにも聞こえた。

きっと——

ここまで来れたことが、意味だったんだ。

「……ああ」

強く頷く。

「最後まで行こう」

その言葉に、彼女は少しだけ笑った。

今までで一番、自然な笑顔だった。

第五章:愛する勇気

空が、音を立てて軋んでいた。

ひび割れた空の隙間から、光が漏れている。
それは綺麗というより、どこか“限界”を示す光だった。

世界そのものが、もう長くはもたないと告げている。

「……急がないと、まずいな」

自分でも驚くくらい、冷静な声が出た。

さっきまでの混乱が、嘘みたいに引いている。

理由は分かっていた。

——覚悟を決めたからだ。

「うん」

彼女も、小さく頷く。

その横顔は、少しだけ強張っていたけど、
もう迷いはなさそうだった。

「……さっきの続き、やるぞ」

視線を合わせる。

言葉にしなくても、何をするかは分かっている。

“思い出す”。

それだけだ。

でもそれは、同時に——

“終わりに近づく”ことでもある。

「ねぇ」

彼女が呼ぶ。

声が、ほんの少しだけ揺れていた。

「怖い?」

その問いは、やけにまっすぐだった。

誤魔化しの余地がない。

「……怖いよ」

正直に答える。

隠す意味なんてない。

「でも」

少しだけ間を置く。

胸の奥を確かめるように。

「このままのほうが、もっと怖い」

その言葉は、自然に出た。

曖昧なまま終わること。
何も思い出せないまま、日常に戻ること。

それを想像した瞬間、ぞっとした。

「……そっか」

彼女は、小さく笑う。

その笑顔は、どこか安心したようだった。

「じゃあ、大丈夫だね」

「何がだよ」

少しだけ肩の力が抜ける。

「ちゃんと、進めるってこと」

その言葉に、少しだけ救われる。

一人じゃない。

それだけで、こんなにも違うのかと思う。

「……行くか」

深く息を吸う。

目の前には、また“灯火”が浮かんでいた。

さっきよりも大きく、でも不安定に揺れている光。

近づくたびに、世界が歪む。

足元が、少しだけ沈むような感覚。

「これ……さっきよりやばくないか」

思わず呟く。

彼女は、苦笑いした。

「たぶん、深いところだから」

「深いって……」

「大事な記憶ほど、壊れやすいの」

その言葉に、妙な重みがあった。

大事だから、残るんじゃない。

大事だからこそ、壊れる。

その矛盾が、やけに現実的だった。

光の前で立ち止まる。

鼓動が早い。

息が浅い。

でも、引き返す気はなかった。

「……いくぞ」

手を伸ばす。

その瞬間——

彼女が、俺の手を強く掴んだ。

「待って」

驚いて振り向く。

彼女の表情は、今までで一番真剣だった。

「これ、たぶん最後に近い」

「……ああ」

「だから」

少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。

「ちゃんと、向き合って」

その目は、まっすぐだった。

逃げ場がない。

でも、不思議と怖くはなかった。

「……分かってる」

そう答えると、彼女は小さく頷いた。

それから——

ゆっくりと、俺の手を握り直した。

指と指が、しっかり絡む。

さっきよりも、強く。

まるで、離さないように。

「ねぇ」

彼女が言う。

「もしさ」

少しだけ、声が震える。

「全部思い出して、終わったら」

「……ああ」

「そのあとも」

一瞬、言葉が途切れる。

それでも、続ける。

「ちゃんと、生きてね」

その一言が、重く落ちる。

軽く受け止められる言葉じゃない。

これは、“その先”の話だ。

この夢が終わった後の。

「……約束はできない」

正直に言う。

彼女が少しだけ驚いた顔をする。

「でも」

視線を外さない。

「忘れないようには、する」

その言葉に、彼女は少しだけ目を細めた。

それは、泣きそうなのをこらえている顔だった。

「……うん」

小さく頷く。

それで十分だと言うように。

「じゃあ」

ゆっくりと、光のほうへ向き直る。

「やろうか」

二人で、同時に手を伸ばす。

触れる直前——

彼女が、もう一度だけ言った。

「今だけでいいから」

その声は、優しかった。

でも、強かった。

「愛する勇気を」

その言葉と同時に、

光に触れた。

瞬間、

世界が爆ぜた。

音が消える。
色が溶ける。
時間が止まる。

そして——

記憶が、流れ込んできた。

笑い合った日々。
くだらない会話。
些細なすれ違い。

そして——

言えなかった言葉。

伝えられなかった想い。

「あ……」

声が漏れる。

遅すぎた感情が、胸を締めつける。

そのとき、

すぐ隣で、彼女の声がした。

「ねぇ」

すごく近くで。

でも、もう届かない場所から。

「今なら、言えるでしょ」

その一言で、

すべてが繋がる。

「——っ」

言葉が溢れそうになる。

でも同時に、

世界が、限界を迎えていた。

空が完全に割れる。

景色が崩れ落ちる。

終わりが、すぐそこまで来ている。

それでも——

「……待ってろ」

絞り出すように言う。

「ちゃんと、言うから」

その言葉に、

彼女は、ほんの少しだけ笑った。

今までで一番、穏やかな笑顔で。

第六章:崩れる夢

世界が、音もなく崩れていく。

さっきまであったはずの景色が、端から剥がれ落ちるように消えていく。
ビルも、空も、道も——輪郭を保てずに、ゆっくりと溶けていく。

足元すら、頼りない。

踏みしめているはずの地面が、わずかに沈む。
まるで、水の上に立っているみたいに。

「……くそ」

歯を食いしばる。

もう、時間がない。

頭では分かっているのに、体がうまく動かない。

流れ込んできた記憶が、まだ中で暴れている。

言えなかった言葉。
伝えられなかった想い。
あの日、飲み込んだまま終わった感情。

それらが、一気に押し寄せてくる。

「……っ」

息が詰まる。

苦しい。

でも、止まるわけにはいかない。

「ねぇ」

彼女の声がする。

すぐ近くで。

でも、どこか遠くで。

振り向く。

彼女の姿が、少しだけ“薄く”なっていた。

輪郭がぼやけている。

光に溶け始めている。

「……おい」

思わず手を伸ばす。

でも、その距離がやけに遠い。

「大丈夫」

彼女は言う。

その声は、優しかった。

でも同時に、どこか諦めたようでもあった。

「もう、時間だから」

その一言で、胸が締めつけられる。

「……ふざけんなよ」

思わず声が荒くなる。

「まだ、何も——」

言いかけて、言葉が止まる。

違う。

“何も”じゃない。

ちゃんとある。

言うべきことは、分かっている。

でも——

「……言えなかったんだ」

ぽつりと漏れる。

あの日。

あのとき。

言おうとして、やめた言葉。

そのせいで、全部が途切れた。

「うん」

彼女は、小さく頷く。

否定しない。

責めもしない。

ただ、受け止める。

「でもね」

一歩、こちらに近づく。

その動きが、少しずつ遅くなっている。

まるで、時間に引き止められているみたいに。

「今なら、言えるでしょ」

その言葉が、胸に刺さる。

さっきと同じ言葉。

でも、意味が違う。

これは“最後のチャンス”だ。

「……ああ」

息を吸う。

喉が乾く。

心臓がうるさい。

でも、逃げない。

もう、逃げない。

「……俺は」

言葉を探す。

頭の中には、いくらでもあるのに、
どれも足りない気がする。

でも、選ぶしかない。

今、ここで。

「……ずっと」

声が震える。

それでも、止めない。

「言えなかったけど」

一歩、踏み出す。

距離が少し縮まる。

でも同時に、彼女は少し遠ざかる。

世界が、それを許さないみたいに。

「——好きだった」

その一言が、ようやく外に出る。

空気が、震えた気がした。

世界の崩壊が、一瞬だけ止まる。

彼女の目が、わずかに見開かれる。

「……うん」

小さく、頷く。

それだけなのに、全部が伝わった気がした。

でも——

それだけじゃ、終われない。

「……違う」

首を振る。

今のは、過去だ。

それだけじゃ、足りない。

「今も」

もう一歩、踏み出す。

足元が崩れかける。

それでも、止まらない。

「今も、好きだ」

その言葉と同時に、

世界が、大きく揺れた。

空が完全に割れる。
光が溢れ出す。
音がすべて消える。

限界だった。

「……っ」

彼女の姿が、さらに薄くなる。

もう、はっきりとは見えない。

「……遅いよ」

少しだけ、笑う声がする。

でもその声は、責めていなかった。

「ほんとに」

少しだけ、泣きそうな声。

「ほんとに、遅い」

それでも——

その中に、確かにあった。

喜びが。

救われたような、そんな感情が。

「……ごめん」

言葉が漏れる。

遅すぎた謝罪。

取り返しのつかない後悔。

「いいよ」

彼女は、やさしく言う。

「それ、聞けただけで」

その言葉に、胸が締めつけられる。

救われたのは、たぶん俺のほうだった。

「ねぇ」

彼女が、最後に言う。

その声は、もうほとんど届かない。

「ちゃんと、生きてね」

さっきと同じ言葉。

でも、今度は“別れ”の意味を持っていた。

「忘れてもいいから」

その一言で、息が止まる。

「でも」

ほんの一瞬だけ、輪郭が戻る。

最後の力みたいに。

「ちゃんと、残るから」

その言葉と同時に、

彼女の姿が、光に溶けた。

完全に、消えた。

「——っ!!」

手を伸ばす。

でも、もう何もない。

空間だけが、残る。

その直後——

すべてが、真っ白になった。

第七章:忘却

静かだった。

さっきまでの崩壊が嘘みたいに、
世界は音を失っていた。

白い。

どこまでも白い。

空も、地面も、境界がない。

ただ“何もない空間”が広がっている。

「……」

声を出そうとして、やめる。

出す意味がない気がした。

ここには、何も反応するものがない。

音は、どこにも届かない。

「……終わったのか」

ぽつりと呟く。

その言葉だけが、自分の中で反響する。

終わった。

何が?

——分からない。

でも、“何か”が終わった感覚だけは、はっきりと残っている。

胸の奥が、妙に軽い。

さっきまであったはずの重さが、消えている。

苦しさも、焦りも、全部。

代わりに残っているのは、

ぽっかりとした空白だけだった。

「……なんだこれ」

自分の胸に手を当てる。

鼓動はある。

ちゃんと、生きている。

でも——

「……こんな、軽かったか」

違和感がある。

軽すぎる。

何かを落としたあとみたいに。

いや、

“落としたことすら忘れたあと”みたいに。

頭の奥に、かすかな引っかかりがある。

何か、大事なことがあった気がする。

でも、それが何なのかが分からない。

思い出そうとする。

目を閉じる。

集中する。

——何も出てこない。

名前も、顔も、声も。

すべて、最初から存在しなかったみたいに、消えている。

「……誰か、いたよな」

口に出した瞬間、

その言葉の“意味”が揺らぐ。

誰か。

それは誰だ?

友達か?

家族か?

それとも——

「……」

そこで、思考が止まる。

先に進まない。

何かに引っかかるはずの場所が、
きれいに“削り取られている”。

「……おかしいだろ」

思わず笑いそうになる。

こんなにきれいに消えることなんて、あるのか。

何も残らないなんて。

普通、もっと——

何かしらの痕跡があるはずだ。

感情とか、空気とか、
説明できない“残り香”みたいなものが。

「……」

ふと、胸の奥がわずかに痛む。

ほんの一瞬だけ。

鋭く、刺さるような痛み。

「……なんだ今の」

手を当てる。

でも、もう何もない。

痛みは消えている。

ただ、気のせいみたいに。

「……気のせいか」

そう呟いて、空を見上げる。

相変わらず、白いだけの空間。

どこにも出口が見えない。

でも、不思議と焦りはなかった。

ここにいる理由も分からないのに、
ここから出なきゃいけない理由も、分からない。

ただ、

“そのうち終わる”という感覚だけがあった。

「……まぁ、いいか」

ぽつりと呟く。

どうでもいい、というわけじゃない。

ただ、

“考える必要がない”と思ってしまった。

それくらい、何もかもが薄れていた。

そのとき——

不意に、音がした。

ツルリ。

小さな音。

何かが、滑り落ちるような。

「……?」

周囲を見る。

何もない。

でも、確かに聞こえた。

ツルリ、ツルリ。

また、同じ音。

今度は、少しだけ近い。

「……なんだよ」

眉をひそめる。

その音に、妙な不安を感じる。

理由は分からない。

でも、本能的に“良くないもの”だと分かる。

ゴクリ。

今度は、別の音。

何かが、飲み込まれるような。

喉の奥で鳴るような、嫌な音。

「……」

背筋が、少しだけ冷える。

さっきまで感じなかったはずの恐怖が、
じわじわと戻ってくる。

ツルリ。

ゴクリ。

ツルリ。

ゴクリ。

音が、近づいてくる。

何かが、

“何かを食べている”。

そう思った瞬間、

胸の奥が、またわずかに痛んだ。

「……っ」

手を押さえる。

今度は、少しだけ長く残る痛み。

でも、何が原因なのか分からない。

ただ、

“失っている”という感覚だけがある。

「……やめろよ」

誰に向けてか分からないまま、呟く。

ツルリ。

ゴクリ。

その音が、すぐ近くで止まる。

気配を感じる。

でも、姿は見えない。

いや——

“見えないんじゃない”。

“認識できない”。

そこに何かがいるはずなのに、
それを“理解するための情報”が欠けている。

「……なんだよ、お前」

問いかける。

返事はない。

ただ、

ゴクリ。

と、ひときわ大きな音が鳴る。

その瞬間——

胸の奥の“何か”が、

完全に消えた。

「……あ」

声が漏れる。

でも、その意味が分からない。

何が起きたのか、理解できない。

ただ——

さっきまであったはずの“違和感”すら、消えていた。

空白だけが残る。

それすら、もう気にならない。

「……」

しばらく、立ち尽くす。

何も考えない。

考える必要もない。

ツルリ。

ゴクリ。

その音も、もう気にならなかった。

ただの“環境音”みたいに、背景に溶ける。

「……そろそろ、終わりか」

なんとなく、そう思う。

理由はない。

でも、そう感じた。

目を閉じる。

何も浮かばない。

誰の顔も、どんな声も、どんな感情も。

完全に、空っぽだった。

それでも——

ほんの一瞬だけ。

消える直前に。

どこからともなく、

かすかな声がした気がした。

「——忘れる前に」

でも、その意味を考える前に、

すべてが、

静かに、途切れた。

第八章:残されたもの

目が覚めた。

ゆっくりと、意識が浮かび上がる。

視界がぼやけている。

天井の白い模様が、にじんで見える。

「……」

瞬きをする。

何度か繰り返すうちに、輪郭がはっきりしてくる。

見慣れた天井。

見慣れた部屋。

自分の部屋だった。

「……朝、か」

掠れた声で呟く。

喉が乾いている。

体が重い。

でも、それは“よくある朝”の感覚だった。

夢を見たあとのような、妙な疲労感。

内容は覚えていないのに、
どこかだけが引っかかっている、あの感じ。

「……変な夢、見た気がする」

上体を起こす。

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。

やけに静かだ。

外の音が、少し遠く感じる。

その感覚に、一瞬だけ違和感を覚える。

でも、すぐに消える。

「……まぁ、いいか」

軽く息を吐く。

夢なんて、そんなものだ。

起きた瞬間にほとんど忘れて、
残るのは断片的な感覚だけ。

意味なんて、後からいくらでもこじつけられる。

そうやって、全部“なかったこと”になる。

「……」

その考えに、なぜか少しだけ引っかかる。

なかったこと。

その言葉が、妙に重く感じた。

理由は分からない。

でも、胸の奥にほんのわずかな違和感が残る。

「……なんだよ」

苦笑する。

気にするほどのものじゃない。

そう思って、ベッドから降りる。

床の冷たさが、やけにリアルだった。

洗面所に向かう。

鏡の前に立つ。

自分の顔が映る。

いつも通りの顔。

少しだけ寝不足っぽい目。

それだけだ。

変わったところは、何もない。

「……ほんとに、夢か」

呟いて、水で顔を洗う。

冷たい感触が、意識をはっきりさせる。

タオルで拭く。

そのとき——

ふと、手が止まった。

「……?」

理由は分からない。

でも、なぜか——

“誰かの顔を思い出そうとした”。

無意識に。

条件反射みたいに。

「……誰だよ」

自分にツッコミを入れる。

そんな人、いない。

思い出せないなら、最初から存在しないのと同じだ。

そう結論づけて、手を動かす。

顔を拭き終える。

でも——

胸の奥に、ほんの少しだけ違和感が残った。

痛みではない。

寂しさとも違う。

もっと曖昧で、説明できない何か。

「……気のせいか」

そう言って、部屋に戻る。

机の前に立つ。

スマホを手に取る。

時間を確認する。

いつも通りの朝。

いつも通りの流れ。

何もおかしなところはない。

——はずだった。

「……あれ」

机の上に、何かがある。

小さな紙。

見覚えのないメモ。

「……こんなの、あったか?」

手に取る。

紙は、少しだけしわが寄っていた。

まるで、誰かが握りしめたみたいに。

ゆっくりと開く。

そこには——

たった一行だけ、書かれていた。


「忘れる前に」


「……なんだこれ」

思わず声が漏れる。

意味が分からない。

自分で書いた記憶もない。

誰かにもらった覚えもない。

ただ、その言葉だけが、そこにある。

「……忘れる前に、って」

繰り返す。

その瞬間——

胸の奥が、わずかに痛んだ。

一瞬だけ。

鋭く、でも確かに。

「……っ」

思わず胸を押さえる。

でも、すぐに消える。

何もなかったみたいに。

「……なんだよ、ほんと」

苦笑する。

気味が悪い。

でも、それ以上に——

その言葉が、妙に“引っかかる”。

理由は分からない。

意味も分からない。

でも、捨てる気にはなれなかった。

「……まぁ、いいか」

小さく呟く。

そのまま、メモを机の上に戻す。

いや——

少しだけ迷って、

引き出しにしまった。

目に見える場所じゃなくていい。

でも、完全に消すのは嫌だった。

そんな感覚。

「……行くか」

制服に袖を通す。

いつも通りの準備。

いつも通りの朝。

玄関を出る。

外の空気が、少しだけ冷たい。

空を見上げる。

青い空。

何も変わらない景色。

それなのに——

「……」

ほんの一瞬だけ。

誰かと、ここを歩いた気がした。

隣に。

同じ速度で。

同じ景色を見ながら。

「……」

立ち止まる。

振り返る。

誰もいない。

当たり前だ。

最初から、誰もいない。

「……気のせいだな」

そう言って、歩き出す。

足取りは、いつも通り。

何も変わらない。

何も失っていない。

——はずなのに。

胸の奥に、

小さな空白があった。

埋める必要もないくらい、小さな。

でも、

確かにそこにある。

その空白が、

なぜか少しだけ、温かかった。

理由は分からない。

でも——

それだけで、十分な気がした。


エピローグ

夕方。

帰り道。

オレンジに染まる街の中で、ふと立ち止まる。

理由はない。

ただ、なんとなく。

「……」

風が吹く。

その瞬間——

どこからともなく、声がした気がした。

「——ねぇ」

振り向く。

誰もいない。

それでも、

ほんの少しだけ、笑ってしまう。

「……なんだよ」

小さく呟く。

理由は分からない。

でも、なぜか——

悪くない気分だった。

「……まぁ、いいか」

そう言って、また歩き出す。

夕焼けの中へ。

何も思い出せないまま。

それでも——

確かに、何かを受け取ったまま。

~完~

他にも『Vaundy』の名曲を紹介しておりますので併せてご覧くださいρ(._.*)ρ

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